20-9
翌朝、四人は迷宮『深古水環宮』二十六階層の安全地帯を後にし、地上への帰路に就いた。通常、迷宮深層からの帰還は、熟練の上級魔軌士であっても数日は要する行程だ。だが、アレンが先導するこの隊において、常識は適用されなかった。石造りの通路を吹き抜ける冷気の中、四人の足音だけが規則正しく、しかし尋常ならざる速さで重なり合っていく。
「……帰りも、この速度なのですか」
サツキ・ハートフィールドは、風を切る音を聞きながら愕然としていた。往路と同じく、アレンたちは一切の迷いなく、最短経路を文字通り「駆け抜けて」いく。魔獣との遭遇すら、彼らにとっては一瞬の障害物に過ぎない。彼女の視界の端で、通路の壁や柱が絶え間なく後方へと流れていった。
一日。二十五階層から一階層まで、彼らはわずか一日で戻り、そのまま迷宮を脱出した。
(この人たちは、本当に何者なの……?)
サツキの武人としての常識は、また一つ、音を立てて崩れ去っていた。出口の光が視界に飛び込んできた瞬間、彼女はようやく肺の奥まで届く深呼吸を許された気がした。
迷宮を出て、魔軌士支局へと向かう道中。秋の澄んだ空気が、汗ばんだ肌に心地よく染み渡っていく。サツキは意を決したように、アレンの背中に問いかけた。
「……アレン殿。今回の探索の“取り分”は、頂けるのでしょうか?」
「そうだな。……五%でいいか」
「五%も……!? 練習の身の私に、それほど……ありがとうございます」
サツキは、アレンの寛大さに深く頭を下げた。実力主義の魔軌士の世界において、新参者に五%の配分は破格の待遇だ。
「サツキ様、多分……五億エルくらいになりますよ」
隣を歩くリィナが、事も無げに付け加えた。
「ご、五億……!?」
サツキは足を止め、絶句した。彼女の脳裏では、これまで積み上げてきた武具の価格や、実家である武家集落での暮らしの金銭感覚が、目の前の数字とまるで噛み合わなかった。
「ええ。二十一階層以降のボス魔石は発電所の燃料になりますし、素材の価値が跳ね上がるのですわ」
セリスが、当然のことのように補足する。
五億エル。それは、家伝の魔導薙刀《朧月》の修理代どころか、一級品の新たな武具が数振りは買える巨額だ。サツキは手元にある使い古された薙刀を見つめ、小さく呟いた。
「……買える、気がしますわ」
彼女の胸に、アレンの隣に立つための「武器の更新」への意識が、初めて明確に芽生えた。これまで「家伝の技」だけを心の拠り所としてきた彼女にとって、それは新しい価値観への静かな一歩だった。
「……今回のアレン様の刀を見て、よく分かりましたわ」
セリスが、強い意志を秘めた瞳でアレンを見上げた。
「わたくしたちも、次に新しい武器を用意するなら……あの刀に見劣りしない、もっと良いものを準備しないといけませんわね」
「そうですね。あの一〇〇億の刀……本当にすごかったですし」
リィナもまた、アレンをじっと見つめる。三人の女性たちの視線が、無言の圧力となってアレンに集中した。
「…………わかった、わかった。リィナもだろ?」
アレンは長身を僅かにすくめ、降参するように手を挙げた。
「明日、とりあえず武器屋に行こう。サツキの薙刀も見てもらう」
「……ありがとうございます」
サツキは、アレンの「面倒見の良い隊長」としての一面に、胸の奥が温かくなるのを感じていた。彼女がこれまで知っていた「主」という存在は、命令を下すだけの遠い立場の者が多かった。だがアレンは、自然な形で仲間の困りごとに手を差し伸べる。その飾らない優しさが、彼女の心にじわりと沁み込んでいった。
魔軌士支局の奥。支局長自らが出迎え、アレンの前に丁寧な一礼を捧げた。
「今回も迅速な攻略、感謝いたします、No.0様。おかげでスケジュールに空きができ、完璧な運用が可能です」
「……頼む」
アレンが魔石を差し出すと、鑑定士の手が震えていた。五種類ものボス魔石。それも、深層の極上品ばかりだ。淡い光を放つそれらは、鑑定台の上で静かに脈動しているようにも見えた。サツキは、その換金の光景を眺めながら、再び深い衝撃を受けていた。
(……この人たちは、上級魔軌士パーティが一ヶ月かける迷宮探索を、たった数日で終えてしまった。その経済規模は、一人の武人が想像できる範囲を遥かに超えている……)
この数日間で、サツキはアレン隊という存在の異常さを、本当の意味で理解し始めていた。
支局を後にし、宮殿別邸へと続く石畳を歩く。夕陽に照らされたアレンの背中は、やはり孤独で、そして圧倒的に強大だった。街路樹の影が長く石畳に伸び、行き交う人々の話し声がどこか遠くに感じられる。
サツキは静かに自問する。
(……今の私では、アレン様の隣に立つには、すべてが足りない。武器も、技も、そして覚悟も……)
だが、その自覚は諦めではなく、燃えるような闘志へと変わっていた。
「だからこそ、私はここに来たのです」
ポソリと、誰にも聞こえない声で呟く。
武人としての敬意は、もはや後戻りのできない「誓願」へと昇華されていた。アレン・ヴァルグレイという「理外」の男。その傍らに、三番目の星として並び立つための戦いが、今、本格的に始まろうとしていた。夕暮れの空に、彼女の決意だけが静かに、しかし確かに刻まれていくのだった。




