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迷宮『深古水環宮』、二十六階層 ── 安全地帯。切り出されたままの冷たい石造りの空間に、魔導コンロで沸かした湯の蒸気が白く立ち上っていた。焚き火代わりに置かれた魔力灯の淡い燐光が、壁に預けられた四人の影を長く、静かに伸ばしている。天井の高い岩盤には、これまでの階層とは異なる静けさが満ちており、遠く微かに響く水音だけが、この場所が確かに迷宮深部であることを物語っていた。
「アレン様。明日はどうするんですか?」
マグカップから立ち昇る熱い紅茶の香りに目を細めながら、リィナが尋ねた。彼女の銀髪は結い上げられたままで、戦闘の余韻を残しつつも、その表情にはくつろいだ柔らかさが戻っている。
「……そうですわね。ここまでの安定感を見るに、三十階層あたりまでは問題なく行けそうですわ」
セリスは手慣れた手つきで愛用のレイピアの刀身を拭い、確かな手応えを口にした。だが、その言葉を聞いたサツキは、驚愕に喉を鳴らした。二十五階層といえば、到達できる者は一握りの存在、そして、数週間の準備を要する難所。それを「通過点」と言い切る二人の基準は、すでにサツキの知る武人の常識を遥かに越えていた。彼女は自分の手にした薙刀を膝の上でそっと抱え直し、まだ現実感の伴わない話を聞き続けていた。
「……ああ。三人なら、三十階層までは行けるだろうな」
アレンは広い背中を冷たい岩壁に預け、凪いだ声で応じた。その漆黒の瞳は、手元の端末ではなく、サツキの傍らに置かれた薙刀《朧月》へと向けられた。
「だがな。そのまま進んではサツキの練習にならない。……明日の二十六階層は、サツキとリィナ。二人だけで行かせようと思っている」
「…………っ」
サツキが息を呑む。アレンの「後ろで見ている」という言葉が、文字通りの意味であることを彼女は悟った。これまで守られる側に立ち続けてきた自分に、初めて主導する側としての役割が与えられようとしている。その事実に、彼女の胸の奥で緊張と昂揚が入り混じった。
「分かりました。……精一杯、サツキ様を支えますね、アレン様」
リィナは迷いなく、静かに頷いた。彼女の瞳には、主の意図を汲み取った確かな信頼が宿っている。
「……ただ、一つ問題がある」
アレンの視線が、さらに鋭く薙刀の根元を射抜いた。その瞳の奥で、記憶の深層にある青白い火花が爆ぜた。
(……この感覚。知っている)
脳の記録にはないはずの、嫌な手応え。それは、かつて魔力を持たなかった第一召喚時、故国の形に拘るあまり、無数の「刀のまがい物」を叩き折ってきた者だけが持つ、不吉な直感であった。
「サツキ。その薙刀……刀身の根元に、微細な歪みが生じているぞ」
「えっ……歪み……?」
サツキは慌てて愛刀を手に取り、灯りに透かして確認した。だが、肉眼では一点の曇りも見えない。それでも、鋼の限界を知り、《白緋》を腰に差す男の目は欺けなかった。
アレンの脳裏に、かつて自身の手の中で無残に砕け散った鋼の残像が過る。相手が振るう無骨なソードを強引に「切ろう」として、未熟な技量で獲物の命を奪い続けてきた、泥臭い戦いの記憶。
「二十五階層ボスの衝撃が入ってるな。……かつての俺も、こうして自分の未熟さで愛刀を殺してきた気がする。その歪みは、持ち主の油断と傲慢の積み重ねだ」
アレンの言葉は、氷のように冷たくサツキの心に刺さった。彼は自身の腰にある《白緋》の鞘を一度だけ、愛おしげに撫でた。
「ここは未攻略層だ。家伝とはいえ、その薙刀は深層の守護獣との打ち合いを想定して作られていない。……二十六階層のボスが金属系なら、次に全力をぶつけた瞬間に折れるぞ」
「折れる……。そんな、我が家の魂とも呼べる獲物が……」
サツキの手が微かに震える。武人にとって、家伝の得物を失うことは、自身の存在意義の一部を失うに等しい。彼女は薙刀の刃を見つめながら、これまで幾度となく共に修羅場を潜り抜けてきたその重みを、改めて掌の中に感じ取っていた。
「そこで確認したい」
アレンはどこか慈しむような、けれど残酷なまでに現実的な声を重ねた。
「その家宝が壊れても、挑戦を続けたいか? 俺は止めない。もし壊れたら、一〇億だろうが一〇〇億だろうが、金で買える最高の一本を用意してやる。……だが、家伝の薙刀は二度と戻らない。……それだけは、覚悟してほしい」
「私なら……ここは我慢します」
沈黙を破ったのはリィナだった。彼女は袖の中に隠した母の形見のショートロッドに、そっと指を触れた。
「これは代わりの利かないものですから。アレン様にどんなに素晴らしいものをいただけても……私は、これを失いたくありません」
「わたくしは……そこまでの思い入れがある品ではありませんので、迷わず突っ込みますわね」
セリスが少しだけ悪戯っぽく笑い、場を和ませようと肩を竦めた。
「道具は使い潰してこそ華。……ですがサツキ様。あなたの薙刀は、そうではないようですわね?」
サツキは、自身の薙刀の柄を白くなるほど強く握りしめた。武人としての功名心。そして、アレンに認められたいという焦燥。それらを天秤にかけ、彼女は最後に、目の前の男が自分を「一人の武人」として尊重してくれているという事実に、深く救われた。
「…………アレン様。挑戦は、次回にしたいと思います」
サツキは深く、深く頭を下げた。
「私には、まだこの薙刀を壊さないほどの技量が……そして、壊れても笑っていられるほどの覚悟が足りません」
「そうか。……なら、明日は帰ろう」
アレンは即座に立ち上がった。未練も、落胆もない。彼はただ、一人の武人が下した誠実な決断を、無条件で受け入れた。その簡潔な受容の仕方こそが、サツキの胸に静かな安堵をもたらしていた。
深夜。キャンプの魔力灯を落とし、シュラフに潜り込んで眠りに落ちる寸前のことだった。安全地帯を包む闇は深く、遠くから響く水音だけが、規則正しい鼓動のように空間を満たしていた。
「……サツキ」
アレンが、闇の中でぽつりと言った。
「ん、何……?」
「お前の薙刀、いい武器だな。……大事にしろよ」
「…………っ」
暗闇の中、サツキの心臓が、迷宮の鼓動よりも激しく跳ねた。頬が焼けるように熱くなるのを、誰にも見られぬよう、彼女は深く毛布を被り直した。
「……はい。大事に、します」
その一言が、かつての自分が「折ってきた」刃たちへの手向けのように、そしてサツキの魂を理外の騎士へと繋ぎ止める、逃れられぬ恋の楔となって響いた。
闇の中、リィナとセリスは既に静かな寝息を立てていた。だがサツキだけは、しばらくの間、天井を見上げたまま眠りに落ちることができずにいた。彼女の胸の奥では、先刻の短い会話が幾度も繰り返され、そのたびに新たな熱を帯びていく。薙刀《朧月》を抱きかかえるように寝返りを打ちながら、彼女は静かに目を閉じた。翌朝、地上への帰路につく四人を待つのは、まだ見ぬ新たな旅の始まりであった。




