20-7
翌朝、二一階層の安全地帯。安全地帯を抜けた瞬間、昨日までとは比較にならないほど濃密な魔力の圧が、四人の肌を刺した。通路の奥から響いてくるのは、迷宮そのものが拍動しているかのような、巨大な水のうねりの音だ。石造りの通路に染み付いた冷気は、これまでの階層とは明らかに質を異にしており、呼吸をするたびに肺の奥まで冷たさが染み渡っていくようだった。
「……空気が重いですわ。ここからは昨日までとは別物ですわね」
セリスがレイピアを正眼に構え、その琥珀色の瞳を鋭く細めた。彼女の視線の先、広大な円形広場の中央には、全身を激しい濁流の鎧で覆った巨大な守護獣が鎮座していた。その巨躯からは絶えず水飛沫が滴り、床に広がる薄い水膜が松明の光を不気味に反射している。
ドドォォォン!
守護獣の咆哮と共に、目に見えないほどの超高圧な水流の衝撃波が放たれる。
「くっ……!」
リィナが咄嗟に前方へ身を乗り出した。四人を包んでいた《三重魔導護膜》が不吉な軋み声を上げ、火花を散らす。セリスが即座に放った《爆炎砲》も、守護獣が纏う高密度の魔力壁に押し返され、蒸気となって霧散した。白い蒸気が広間全体に立ち込め、視界を一瞬だけ白く曇らせる。
「……昨日より強いな。行くぞ」
アレンの低く、凪いだ声が響く。その一言で、現場の空気が一変した。静かな魔力圧が、荒れ狂う守護獣の威圧を真っ向からねじ伏せていく。
二二階層。前衛を務めるサツキに、ボスの不可視の突進が襲いかかる。
──パリン!
「なっ……!?」
澄んだ砕裂音。サツキの体表を覆っていた第一層の護膜が粉々に砕け散った。リィナによる自動再展開が即座に発動するが、サツキの身体には衝撃の余波が走り、重心が大きく崩れる。
(当たってる……!? この速度、この護膜越しに衝撃が届くなんて……!)
サツキの額に冷や汗が流れる。彼女の脳裏には、これまで培ってきた「間合いの支配」という概念そのものが、この深層の敵には通用しないという事実が重く突きつけられていた。その刹那、背後から冷徹なまでの冷静さを湛えたアレンの指示が飛んだ。
「セリス、攻撃に回れ! サツキの踏み込みに合わせて、交互に波長を合わせろ!」
「了解!」
アレンから放たれる迷いのない指揮が、混乱しかけた戦場を瞬時に繋ぎ止めた。階層を下るごとに、四人の動きは劇的な変化を遂げていく。
サツキの圧倒的な薙刀術による前衛制圧。セリスによる中距離からの精密攻撃魔術。リィナによる完璧なまでの障壁維持。そして、後方から戦場全体を俯瞰し、魔力の揺らぎ一つで戦術の穴を埋めるアレン。四人の呼吸が、まるで一つの生命体のように噛み合っていく様子を、アレン自身も静かに見届けていた。
(この人たち……ただ強いだけじゃないわ。連携の練度が、異常です……!)
サツキは戦慄していた。個の力を最大化しながらも、一人が動けば三人がそれを補完し、増幅させる。アレン隊の戦術が、真の意味で完成に近づいていた。
二四階層に鎮座していたのは、十メートル級の巨躯を誇る「水の巨神」であった。その全身は幾重にも重なる古代機構の装甲で覆われ、関節部分から絶えず高圧の水流が噴き出している。
「サツキ、右脚の装甲を剥がせ! セリス、核を狙い打て!」
「はああぁッ!」
サツキが地を蹴り、風を纏った薙刀《朧月》を一閃させる。巨神の装甲を物理的に切り裂いた瞬間、巨神が報復の腕を振り上げた。だが、リィナの護膜がその水圧の衝撃を完全に殺し、サツキの背中を一歩も通さない。
「ここですわ! 《雷槍》!」
露出した核へ、セリスの黄金の雷撃が吸い込まれる。轟音と共に、巨神が水塊となって霧散した。飛び散った水飛沫が魔力灯の光を受けて、一瞬だけ虹色の輝きを放ちながら床に落ちていく。
「……凄い……二四階層ボスを、私たちが倒した……」
「よくやったな」
アレンが静かに頷く。サツキの瞳には、かつてない自信が灯っていた。だがそれ以上に、彼女の胸の奥で、静かな、けれど熱い「誓い」が形を成し始めていた。
サツキは、前を行くアレンの広い背中を、言葉もなく見つめた。彼は「零」であり、理の外側に立つ守護者だ。彼は常に、自分たちが最も輝ける場所を整え、万が一の際には自らを盾にしてでも背後を守ろうとする。
(……違う。私は、この人の横に並ぶための『盾』になりたいのではない。この人が何の憂いもなく理外を振るうために……その背後を、一欠片も顧みなくて済むような『絶対の地平』になりたいの)
それは、サツキの中に芽生えた明確な「誓願」であった。第三の誓導者への道。彼女は、自らの薙刀を振るう本当の理由を、この過酷な深層で見つけ出したのだ。手にした薙刀の柄に、彼女は静かに力を込め直した。
二五階層。主は古代金属と水が融合した「巨大蟹型魔獣」であった。魔術を反射する甲殻と、バリアを削り取る高圧水流砲。だが、覚悟を新たにしたサツキを得たアレン隊にとって、それはもはや壁にはならなかった。
アレンが蟹の足を《衝撃制御》で物理的に弾き飛ばし、その隙間をサツキが両断する。最後はセリスの《爆炎砲》が内部から焼き尽くし、決着はついた。轟音の余韻が石壁に反響し、やがて静かな水音だけが広間に戻ってくる。
「……あり得ない。二五階層の守護獣を、これほど安定して……」
サツキは、その場に残った巨大な魔石を、信じられないものを見るように呆然と見つめた。淡い光を放つその魔石は、これまで彼女が見てきたどの素材とも異なる、圧倒的な純度を宿しているように感じられた。
「やっぱり、前衛がいると全然違うわね」
セリスが額の汗を拭いながら微笑む。
「本当に。……二人だけで挑戦した時とは、世界が違います」
リィナの言葉に、サツキが弾かれたように振り返った。
「えっ? 二人だけで来たことがあるのですか?」
「ええ。正直、後衛だけだとかなり大変でしたのよ?」
サツキは愕然としたまま、アレンを振り返った。
(この人たち……本当に、後衛だけでこの地獄を突破してきたの……? アレン殿……あなたは、どれほどの高みを見ていらっしゃるのですか……)
彼女の「武人としての常識」は、音を立てて崩壊していた。アレンが落とす長い影。その腰に差された銀の脇差が、迷宮の残光を受けて冷たく、けれど気高く煌めいている。
サツキの心は、もはや理外の騎士へと完全に繋ぎ止められていた。恋か、あるいは武人としての忠誠か。その境界はまだ曖昧だが、彼女はこの背中を追い、支え抜くことを、魂の奥底で深く宣誓したのである。
戦いの余韻が薄れゆく広間の中で、四人は静かに息を整えていた。天井の隙間から差し込む微かな光が、水面に反射して幾つもの光の粒を宙に散らしている。サツキは、この一戦を通して自分の中で確かに変わった何かを、じっと噛み締めていた。深層の水の音が、いつまでも静かに広間に満ちていた。




