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アーク・コントラクター  作者: 瑠志彦
第20章:押しかけの武人

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20-6

ガルディア公国が誇る四大迷宮の一つ、深古水環宮しんこすいかんぐう。第一階層に足を踏み入れた瞬間、四人を迎えたのは、冷たく湿った空気と、どこか遠くで響く巨大な歯車の駆動音、そして絶え間なく流れる水の音だった。古代機構の隙間から漏れ出す燐光が、石造りの通路を青白く照らしている。壁面に走る配管のような構造物からは、時折小さな蒸気が漏れ、地下深くに眠る文明の余熱を静かに主張していた。


アレンは無造作に歩を進めながら、視線を迷宮の奥へと向けた。


(……とりあえず、二十一階層まで走るか)


「はい。それなら大丈夫ですね」


隣を歩くリィナが、思考読解リーディングで即座に応じた。彼女にとって、アレンが先導する攻略において「迷宮を走る」ことは、すでに疑う余地のない標準スタンダードとなっていた。銀髪を軽く結い上げ、身軽な戦闘態勢に整えた彼女の足取りには、これから始まる長丁場への確かな覚悟が滲んでいる。


「……走る? 階層を、ですか?」


サツキだけが、信じられないものを見る目で足を止めた。彼女がゼルハルトで叩き込まれ、誓環学院で磨き上げてきた武人の常識において、迷宮とは一歩一歩、罠と索敵を重ねて慎重に進むべき「死地」である。背に負った薙刀《朧月おぼろづき》の重みを確かめるように肩を揺すりながら、彼女は先を行く三人の後ろ姿を、まだどこか信じきれない様子で見つめていた。


「サツキ、とりあえず風で浮けるか?」


「ええ、その場で数センチ浮くくらいなら造作もありませんが……」


「なら大丈夫だ。リィナ、固めておけ」


「はい。サツキさん、失礼します」


リィナが袖からショートロッドを滑らせると、サツキの身体を三層の幾何学的な光の紋様が包み込んだ。


「《三重魔導護膜トリプル・アーク・シェル》を同期させました」


「サツキ様。五センチでいいので、浮いたまま走ってください。慣れれば分かります」


リィナの教えに従い、サツキは風の魔力を足元に集中させる。


「わ、分かったわ……」


「行くぞ」


アレンの短く低い号令と共に、行軍が始まった。最初は軽快なジョギング程度の速度。だが、それは数秒の間に劇的な「加速」へと転じた。徐々に、けれど確実に。最終的に彼らが到達したのは、通常の魔軌士が全速力で短距離走を行う時の速度だった。


(は、速い……! 冗談でしょう!?)


サツキは必死に地を蹴り、風の魔力で自身の身体を前方へと押し出した。視界の両端が、異常な速度で後ろへと流れていく。迷宮の凹凸は浮遊によって無視され、ただ「速度」という暴力だけが彼女を支配していた。呼吸を整える間もなく、通路の壁や柱がまるで一枚の帯のように連続して視界を横切っていく。


だが、サツキが何よりも戦慄したのは、その速度そのものではなかった。彼女は「戦技だけなら歴代最強」と称された武人である。人の呼吸、重心、そして周囲の空気に走る微細な震えから敵の出方を読む「気配の読み」こそが、彼女の真骨頂だった。


(この速度で走りながら、アレン様は周囲の魔力密度を一切乱していない……)


サツキの茶色の瞳が、前方を走るアレンの広い背中を凝視する。通常、これほどの高速移動を行えば、身体が空気を切り裂く摩擦音や、身体強化による魔力の励起が周囲の魔力環境に「波紋」を作るはずだ。だがアレンには、それが一切ない。


(まるで、迷宮の空気そのものに溶けているようだわ。この人は、魔力の流れを『掻き分ける』のではなく、自らの一部として『同化』させている……?)


武人としての本能が、理解不能な「異質」に対し、肌を刺すような恐怖と、それ以上の畏敬を叫んでいた。彼にとって迷宮は、征服すべき対象ですらなく、ただの「生活圏」の一部に過ぎないのだという残酷なまでの実力差。彼女はこれまで、自らの薙刀術こそが誰よりも「速い」と信じてきた。だが今、その自負すら、この男の圧倒的な日常性の前では色褪せていくのを感じていた。


途中で出現した魔獣の群れに対し、アレンは足を止めることさえしなかった。


「邪魔だ」


その呟きと共に、魔術式を介さぬ白銀の光束が、最短距離で魔獣の急所を射抜いていく。爆発も、断末魔の叫びすらも置き去りにして、四人は音速の進撃を続けた。



十五階層の守護獣を、アレンが片手で放った光の一撃で粉砕した頃、サツキの武人としての常識は完膚なきまでに崩壊していた。


「アレン様。十六階層からは、ちゃんと狩りましょう」


リィナの提案に、アレンが静かに頷いた。


「……そうだな。じゃあ、サツキ先頭で。二人がカバーしろ。俺は後ろで見る」


十六階層。現れた魔獣に対し、サツキが地を蹴った。その動きは、アレンをして「良い腕だ」と言わしめるほどに鋭かった。薙刀《朧月おぼろづき》が風を纏い、一閃ごとに真空の刃が敵の甲殻を切り裂いていく。石壁に反響する魔獣の咆哮と、それを切り裂く風切り音とが、迷宮の通路に幾重にも重なり合った。


リィナの障壁が背後の死角を完璧に埋め、セリスの精密な支援魔術がサツキの間合いを広げる。


(……やっぱり、強いな)


アレンは後ろからその動きを見、彼女を「前衛」として初めて認めた。



二十階層のボス。サツキが敵の注意を引き、その隙をセリスの《雷槍ライトニング・ランス》が貫く。三人の連携は、初めてとは思えないほど滑らかに機能した。轟音と共に電光がボスの装甲を穿ち、飛び散る火花が薄闇の広間を一瞬だけ白く照らし出す。


「さすがサツキ様ですわね。今後が楽しみですわ」


「前衛がいると、こんなに違うんですね……」


「ありがとう。でも……本番はここからですわね」


サツキは額の汗を拭い、微笑んだ。


(この人たち……連携の練度すら、異次元ですわ……!)


一人が動けば三人が補完する。それは個の実力を最大化しながらも、パーティ全体が一つの生き物のように機能する、究極の「戦術」の完成形だった。彼女はこれまで、個の武技こそが戦の勝敗を決すると信じてきた。だが目の前で展開される連携は、その信念に静かな、しかし確かな揺らぎを与えていた。


「そうだな。今日はここまでにしよう。リィナ」


「分かりました。準備しますね」


二十一階層、安全地帯。水に囲まれた古代の石造りの広場に辿り着いた時、サツキは肩で息をしながらも、自身の薙刀を強く握りしめた。通常、上級魔軌士が数週間をかけて到達する地点に、彼らはわずか一日で到達したのである。


焚き火代わりの魔力灯が四人の顔を静かに照らす中、サツキはアレンの背中を見つめた。


(この場所は……世界で最も過酷で、そして、世界で最も『武』を研ぎ澄ませる場所)


サツキの胸にある敬意は、もはや消えることのない確かな「誓願」へと変わっていた。理外の騎士の隣。そこがどれほど常識を逸脱した狂気の地平であろうとも、彼女はこの背中を追い続けると心に決めた。


夜が深まるにつれ、安全地帯を包む静寂の中に、遠く迷宮の奥から響く水の音だけが規則正しく続いていた。魔力灯の淡い光に照らされた四人の影が、石床の上で穏やかに揺れている。サツキは自身の薙刀の刃をそっと布で拭いながら、この一日で塗り替えられた自らの武人としての常識を、静かに胸の中で反芻していた。明日もまた、この理外の一団と共に、常識の外へと踏み出すことになる。その予感に、彼女は僅かな高揚と、確かな決意を新たにしていた。


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