20-5
サツキがガルディア公国の宮殿別邸に居を構えた翌日。九月の朝の光が、別邸の高い窓から柔らかく差し込んでいた。紺の戦闘服に包んだアレンは、リビングで静かに自身の「刀」を検分していた。刃を鞘から僅かに覗かせ、朝の光にその銀色の輝きを確かめる仕草には、二千年の記憶と繋がった武器への、まだ言葉にならない親愛が滲んでいた。
その傍らには、すでに正装(戦闘服)を整え、背筋を伸ばして座るサツキの姿がある。彼女の膝の上には、薙刀《朧月》が丁寧に横たえられていた。
「……好きにしろ。ついて来たいなら勝手に来い」
アレンは視線を刀に落としたまま、無造作に告げた。それは拒絶ではなく、彼なりの「同行の許可」であった。彼にとって、これ以上言葉を重ねる必要はなかった。
「はい。ありがとうございます、アレン様」
サツキは生真面目に頭を下げる。その瞳には、武人としての深い敬意が宿っていた。頭を下げるその一瞬、彼女の胸の奥には、あの雪の裏庭で芽生えた感情が、まだ形を持たぬまま静かに息づいていた。
リィナはそんな二人の様子を眺めながら、心の中で小さく溜息をつく。
(アレン様……それ、事実上の許可になってますよね)
セリスもまた、呆れたように金髪を揺らした。
(この人、本当に自覚がありませんわ……。無意識に居場所を与えてしまうのですから)
彼女はティーカップを口元に運びながら、内心でもう一度小さく嘆息した。アレンのこの無自覚さは、これまで何度も目にしてきたはずなのに、いまだに慣れることができない。
その時、アレンの『アーク・リンク』が鋭い電子音を鳴らした。画面に表示されたのは、公女王エリシアからの直接通信。
『アレン殿、今月は“深古水環宮”を「定期清掃」してほしいの。二十五階層から二十一階層までのボス魔石を、全てね』
「……またか」
アレンは短く応じ、端末を閉じた。ガルディア公国の電力を支える魔石発電所。その燃料となるのは、二十一階層から二十五階層のボス魔石のみだ。国家のエネルギー供給の二割を支えるため、「定期清掃」は、最強の魔軌士であるアレンに課せられた義務のようなものだった。窓の外に広がる秋めいた庭園を一瞥し、彼は小さく息を吐いた。
「アレン様、頑張りましょう。公国の皆さんのためです」
「サツキ様の訓練にも丁度いいですわ。公国を代表する迷宮を体験していただきますわよ」
「ま、マラソン……? 迷宮を、走るのですか……?」
サツキだけが、聞き慣れぬ単語に首を傾げていた。彼女の中で「迷宮攻略」とは、慎重な索敵と、幾重にも張り巡らされた罠への対処を意味する言葉だった。それが「マラソン」という軽やかな響きで語られることに、彼女はまだ実感を持てずにいた。
四人はスケジュール調整のため、魔軌士局を訪れた。受付の局員はアレンの顔を見るなり、恐縮したように背筋を正す。局内の空気が、彼の来訪と共に一段と張り詰めたものへと変わっていった。
「No.0様、ちょうど良いタイミングです。他パーティが二十四階層のボスを突破し、現在二十五階層の探索に入る予定です。ボス戦の準備中かと」
「……は?」
アレンは僅かに眉をひそめた。
(邪魔しちゃ悪いな……)
他パーティの命懸けの攻略に横槍を入れるのは、アレンの主義に反する。彼は静かに思考を巡らせた。
「そのパーティ、いつ二十五階層ボスに行く予定だ?」
「九月二十五日から二十九日の間と推測されます」
アレンは脳内で計算を弾く。
「……なら間に合うか」
そこで、アレンはふと思い当たった。
(……あ、サツキがいるから転移が使えないのか)
アレンの魔術《空間転移》。この秘匿された理外の魔術を、魔力循環誓約を結んでいないサツキの前で、見せるわけにはいかなかった。これまでリィナとセリスの二人だけであれば、あるいは日帰りで済ませられたはずの遠征が、サツキという新たな存在によって、その前提から見直しを迫られていた。
「とりあえず……行くか、一層から」
アレンの言葉に、サツキが目を見開いた。
「二十五階層を目指すのに、食糧やキャンプの準備はどうするのですか?」
通常、上級魔軌士でも一層から二十五階層までの遠征には往復で一ヶ月を要する。彼女の常識では、それだけの長期遠征に見合う荷物の量を、この四人分準備するのは容易なことではなかった。
「……そうですね。アレン様、買い出しに行きましょう」
「久しぶりの迷宮キャンプですわね。腕が鳴りますわ」
リィナとセリスは視線を交わすと、呆然とするサツキを置き去りにして、アレンを魔軌士局から強制連行するように歩き出した。
(サツキがいなかったら、転移で日帰りなのに……)
アレンの心中を見透かしたように、リィナがクスクスと笑う。
「アレン様。サツキ様の前で『かたな』を振るうのに、丁度いい訓練期間になりますね」
「ええ。わたくしも、サツキ様の腕前を改めて見たいと思っていましたのよ」
中央通りの商店街。リィナとセリスは慣れた手付きで、数日分の保存食や野営道具を選んでいく。秋の陽射しが商店街のアーケードから斜めに差し込み、通り過ぎる人々の影を長く伸ばしていた。サツキは、セリスが背負う小ぶりな鞄に次々と荷物が吸い込まれていく様子を凝視していた。
「セリス様、その鞄……すごい収納力ですね。特注品ですか? 相当高かったでしょう」
「えっ……あ、うん。高かったけれど……アレン様にお願いして用意してもらったの」
「私のも、アレン様にいただいたものです」
実際には、その鞄はアレンの『《空間収納》』と魔術的に繋がっている。だが、その真実を明かすことはできない。二人は自然な仕草で、真実を巧みに覆い隠しながら答えを返していた。
「……別に大したことじゃない。道具は使い勝手が重要だからな」
アレンは淡々と答え、歩を進める。彼のその態度には、嘘をついているという後ろめたさは微塵も感じられなかった。それはむしろ、事実の一部を語らないことへの、極めて自然な無関心だった。
サツキはその背中を見つめ、自身の常識が通用しない「アレン隊」の空気に戸惑いを隠せない。
(……この人の“日常”は、私の知る武人の世界とは決定的に違う。便利すぎる魔法の鞄に、百億の刀……。私は、本当にこの人の隣に立てるのかしら)
彼女の胸中には、敬意と共に、ほんの僅かな不安の影が差し込んでいた。
買い物を終えた帰り道、夕陽に染まる宮殿を前に、サツキは小さく呟いた。
「……アレン様の隣に立つには、私はまだ……何かが足りない」
その呟きを、リィナの耳は逃さなかった。
(サツキ様……。彼女も、アレン様の強さに魅せられてしまったのですね)
セリスは、サツキの横顔に宿る真剣な光に、言い知れぬ焦燥を感じる。
(やっぱり……サツキ様。あなたはただの修行ではなく、アレン様の『誓導者』を目指していらっしゃいますのね)
「ん? 何か言ったか?」
三人の視線に気づいたアレンが、不思議そうに振り返る。夕焼けの光が彼の黒髪を橙色に縁取り、その表情には相変わらず何の作為も見当たらなかった。
「いえ。……明日からの遠征、よろしくお願いいたします」
サツキは再び、居住まいを正して一礼した。理外の騎士を巡る、新たな迷宮遠征。それはサツキにとって、武人としての誇りを賭けた「誓い」の始まりであった。宮殿へと続く石畳の道を歩む四人の影が、夕闇に溶けていく街並みの中、静かに長く伸びていった。




