19-15
「パリン」という硬質な音が、雪の降る裏庭に溶けて消えた。サツキを包んでいた三重魔導護膜が、光の粒子となって霧散していく。粒子は雪と混じり合いながら、しばらく宙を漂った後、静かに消え失せていった。彼女の胸元には、アレンが手にしたばかりの「銀の鞘」がぴたりと止められていた。
「……そこまでだな」
アレンが静かに鞘を引き、腰の帯へと戻した。その仕草には一切の気負いがなく、まるで日常の所作の延長のようだった。百九十二センチの巨躯が落とす長い影が、呆然と立ち尽くすサツキを覆う。夕暮れ間近の裏庭に、その影がゆっくりと伸びていた。
サツキは、自身の手に残る薙刀《朧月》の震えを止めることができなかった。刃を握る指先に力を込めても、その震えは一向に収まらない。全力の三連撃を、彼は魔術一つ使わず、ただの「鞘」だけでいなしてみせたのだ。
(負けた……。それも、完膚なきまでに……)
サツキの中で、これまで積み上げてきた武人としての価値観が音を立てて崩れ去っていた。彼女は薙刀を握る手のひらに、じんわりと冷たい汗が滲むのを感じた。
ゼルハルトの山奥で、武家の娘として厳しく育てられた。幼い頃から、朝は薄暗いうちから薙刀を振り、日が暮れるまで型稽古に明け暮れた記憶が、今も鮮明に彼女の中に残っている。誓環学院では「戦技だけなら歴代最強」と謳われ、常に首席を通してきた。魔術が平均的であることを補って余りある「武」の自負が、彼女の支柱だった。それは単なる誇りではなく、彼女がこれまでの人生をかけて築き上げてきた、揺るぎない土台そのものだった。
だが、目の前の男は、その自負を無造作に踏み越えていった。アレンが使ったのは、現代魔術の理論ですらない。純粋な間合いの管理、精密な身体操作、そして淀みない「技量」そのものだった。それは彼女がこれまで追い求めてきた「武の極致」の、さらに先にある領域だった。
「……魔術ではなく、純粋な武技で、この私を……」
サツキの深い茶色の瞳が、信じられないものを見るようにアレンを射抜く。それは屈辱ではなかった。自身の極めたはずの頂の、さらに先を見せられた者だけが抱く、純粋な戦慄だった。彼女の胸の奥で、何かが確かに動き始めていた。
サツキはゆっくりと薙刀《朧月》を雪の上に置き、居住まいを正した。心臓が、今まで経験したことのないほど激しく鼓動を打っている。冷たい風が頬を撫でていくのを感じながら、彼女は自分の内側で渦巻く感情を、まだうまく言葉にできずにいた。
(この人の背中は、どれほど遠いのだろう)
アレンの黒い瞳には、勝利の昂ぶりも、敗者への侮蔑もなかった。ただ、凪いだ海のような静謐さがそこにあるだけだ。その静けさこそが、サツキの心を最も強く揺さぶっていた。もし彼が驕った態度を見せていたなら、あるいはこれほどまでに動揺することもなかったかもしれない。だが、彼はただ、当然のことをしたかのように、そこに佇んでいるだけだった。
「自分より強い者」に出会うことは、武を志す者にとって最大の恐怖であり、同時に最高の福音だ。サツキの中で、一つの強い渇望が鎌首をもたげた。
(この人の隣に立ちたい。この圧倒的な武の背中を、私の薙刀で守りたい……)
それはまだ、恋と呼ぶにはあまりに硬派で、峻烈な感情。理外の強者に対する、武人としての深い「敬意」と「憧れ」だった。彼女はこれまでの人生で、誰かにこれほど強い感情を抱いたことはなかった。それは単なる憧憬ではなく、自らの生き方の座標そのものを揺るがすような、根源的な衝動だった。
「アレン様、お見事でしたわ!」
セリスが誇らしげに駆け寄ってくる。彼女の金髪が夕暮れの光を受けて輝き、その足取りには一切の迷いがなかった。
「怪我はありませんか、アレン様?」
リィナも心配そうに、アレンの黒い上着を甲斐甲斐しく整え始めた。彼女の淡い青の瞳には、これまでの緊張が解けた安堵の色が浮かんでいる。
アレンは、サツキの視線が自分に向けられていることに全く気づいていなかった。彼はただ、腰に差した脇差の重心を確かめ、小さく頷いただけだった。その無自覚さこそが、彼という男の本質を何よりも雄弁に物語っていた。
「……サツキと言ったか。良い腕だった。あの速度で薙刀を振り切れる人間は、そうはいない」
アレンの言葉は、事務的な評価に過ぎなかった。彼にとってサツキは、「ゼルハルトで見つけた優秀な戦士」という、戦力的な認識で止まっている。それ以上でもそれ以下でもない、極めて淡々とした言葉だった。
「……もったいないお言葉です」
サツキは深々と頭を下げた。ポニーテールからこぼれた髪が、雪に濡れて頬に張り付く。その顔が微かに上気していることに、アレンが気づくことはなかった。彼女は頭を下げたまま、自分の頬の熱を悟られぬよう、しばらくその姿勢を保ち続けていた。
「サツキ様? 本当に大丈夫ですの?」
旧知の仲であるセリスが、サツキの異変に気づき、小首をかしげた。彼女は誓環学院時代からサツキの武人らしい佇まいをよく知っていたが、今のサツキの様子には、これまでにない何かが混じっているように感じられた。
「ええ……。ただ、少しだけ、進むべき道が見えた気がしますわ」
サツキは、去っていくアレンの背中をじっと見つめ続けた。百九十二センチの背丈。理を超えた技術。その孤独な背中を独りにさせてはいけないという、奇妙な義務感さえ芽生え始めていた。彼女の胸の内では、これまでの武人としての誇りと、新たに芽生えたこの感情とが、静かに交錯していた。
「セリス、帰るぞ」
アレンの短い呼びかけに、セリスとリィナがそれぞれ頷き、彼の傍らへと歩み寄っていく。三人の足音が、雪の残る裏庭に規則正しく響いていった。
サツキは、その一歩一歩を刻み込むように見送った。冷たい風が彼女の頬を撫で、白い息が夕闇の中にゆっくりと溶けていく。薙刀《朧月》を拾い上げ、しっかりと両手で抱えながら、彼女はしばらくその場に立ち尽くしていた。
恋に落ちる前の、静かなる宣誓。伝説の先輩と称された武家娘の魂は、今、理外の騎士へと完全に囚われていた。裏庭に降り積もる雪だけが、彼女の静かな決意を、音もなく見守り続けていた。




