19-10
工房の最奥へと続く鉄の扉が開くと、そこは外部の喧騒や刺すような熱気が嘘のように消え失せた、耳が痛くなるほどの静寂が支配する空間だった。天井は思いのほか高く、そこに刻まれた古い魔法陣の紋様が、微かな燐光を放ちながら空間全体を淡く照らしている。空気は外の熱気とは対照的に、ひやりと澄み渡っていた。部屋の中央には、血管のように不気味に脈動する赤黒い魔導回路が刻まれた巨大な岩が鎮座している。その岩の頂に、一振りの「刃」が深く、音もなく突き刺さっていた。
「さあ、拝みな。あたしらの先祖が二百年かけて打ち上げ、千八百年守り抜いた、伝説のヒヒイロカネ製の刀だ」
バルバラの太い声が、冷えた室内に響き渡った。その声には、これまでの荒々しさに代わり、確かな厳粛さが滲んでいた。
「ヒヒイロカネ……! あの、神話にのみ語られる伝説の金属ですの!?」
セリスが驚愕に声を弾ませるのを余所に、アレンは吸い寄せられるようにその岩の前へと歩み寄った。一歩、また一歩と踏み出すたびに、彼の靴音が静寂の中に硬質な余韻を残していく。刺さっているのは、アレンが普段腰にぶら下げているショートソードとほぼ同等の長さを持つ武器。反りのある片刃──「脇差」という、この世界の武具体系には存在しない形状であった。その刃が放つ静謐な気配は、周囲を包む岩の脈動とは対照的に、まるで時が止まっているかのような沈黙を纏っていた。
「……これを、俺が注文したのか」
アレンの声は低く、自問するような響きを持っていた。彼の黒い瞳が、その刃の輪郭を一寸たりとも見逃すまいとするかのように、じっと見つめ続けている。
「記録によればね」
バルバラは鼻を鳴らし、岩に突き刺さる漆黒の柄を指差した。彼女の視線には、これまで幾世代にもわたって受け継いできた誇りと、同時に僅かな苦笑の色が滲んでいた。
「二千年前の注文主は、本当にとんでもない分からず屋だったらしいぜ。当時のドワーフが何を勧めても、『この形(刀)じゃなきゃ意味がない』の一点張りだったとさ」
バルバラはアレンを見上げ、職人としての呆れと、僅かな敬意の混ざった笑みを浮かべる。彼女はゆっくりと記録台に戻し忘れていた羊皮紙の一部を懐から取り出し、その内容を読み上げるようにして続けた。
「ご先祖様の手記にはこうある。『あの男は一週間に一度は、ボロボロに折れた刀の“まがい物”を持ち込んできた。相手が振るう無骨なソードを“切ろう”としては、細い刀身をへし折られて帰ってくる。……それでも、奴は絶対に形を変えようとはしなかった』……とな」
その言葉を聞きながら、リィナは静かに胸元で手を握りしめていた。二千年前の自分が知らないアレンの姿が、そこに確かに描かれている。無力な状態で、それでも何かに固執し続けた、一人の男の執念。
「……切る、ためにか」
アレンの独白に、バルバラが力強く頷く。彼女の褐色の頬に、僅かな影が落ちた。
「ああ。夜盗や盗賊が振るう、叩き潰すためだけの鉄の棒を相手に、奴は最後までその『細身のロマン』を捨てなかった。だからこそ、最後に出した注文はたった一つ。魔力伝導なんて二の次だ、とにかく『絶対に折れないこと』。鋼の理をねじ曲げてでも、最強の硬度を求めたんだとさ」
「……そうか。納得した」
アレンは静かに答えた。自分の指先が、その柄を求めて微かに熱を帯びている。彼の胸中には、これまで抱えてきた記憶の空白とはまた違う、確かな共感が満ちていた。魔力がない中、たった一人で「故国の誇り」を守るために、どれほど無謀な戦いを積み重ねてきたのか。その執念が、今、目の前の刃として形を成している。
彼は、その時代の自分を、まだはっきりとは思い出せない。だが、細い刀身が幾度も折れる音、悔しさに拳を握る感触、それでも決して諦めなかった意志の強さ──それらの断片が、まるで遠い記憶の残響のように、胸の奥で確かに震えていた。
バルバラが魔導印を解くと、岩を縛り付けていた光の鎖が、乾いた音を立てて弾け飛んだ。空間全体を微かに包んでいた燐光が、その瞬間、僅かに揺らめいた。アレンは無造作に右手を伸ばし、その漆黒の柄を握りしめた。
その瞬間、掌に伝わってきたのは、背筋が凍るような「鉄の冷たさ」と、どれほどの衝撃を受けても決して揺るがないであろう、圧倒的な密度の芯であった。
(……ああ。そうだ)
脳の記憶ではない。だが、何本もの偽物を折られ、その度に唇を噛んできた屈辱の感触が、この「絶対に裏切らない重み」によって上書きされていくのを感じた。それはまるで、長年探し求めていた欠片が、ようやく本来の場所に収まったかのような、静かな確信だった。
「……ふんっ!」
アレンが一気に引き抜くと、凄まじい銀色の閃光が、工房の隅々までを白く染め上げた。その光は一瞬にして部屋中に反射し、岩肌に刻まれた魔法陣の紋様までもが眩しく浮かび上がった。
「きゃっ……!?」 「ま、眩しいですわ……!」
リィナとセリスが咄嗟に顔を覆う中、アレンの手の中には、神々しいまでの輝きを放つ銀の刀身が姿を現していた。
「……銀色? ヒヒイロカネは赤色のはずでは……?」
セリスが、驚愕と共に刀身を凝視した。窓から差し込む陽光に当てれば、その銀は、深い海のような青へと色を変える。刃の表面を滑る光の反射が、まるで生きているかのように複雑な陰影を描き出していた。
「そうさ。だが、物理的硬度を極めるためにヒヒイロカネを特殊な手法で打ち続けた結果、こいつは魔導的な性質すら変質しちまった。当代のあたしにも、どう打ったのかさっぱり分からん……。名は《白緋》だ」
バルバラはそう言いながら、僅かに感慨深そうな表情を浮かべた。二千年の歳月をかけて完成し、さらに千八百年もの間、この工房の奥で眠り続けてきた刃。その最後の瞬間に立ち会えることが、彼女にとってどれほどの重みを持つものか、その表情から窺い知ることができた。
アレンは、手の中に収まる「物理的な信頼」を確かめるように、軽く刀を振った。ヒュン、と空気を断つ音が、一拍遅れて重厚に響く。その音の余韻が、静かな部屋の中に長く尾を引いた。
初めて握るはずの武器。だが、指の関節一つ、筋肉の動き一つが、その感触を完璧に肯定していた。アレンの脳裏には、まだ具体的な戦闘の記憶までは蘇ってこない。だが、握った瞬間から、まるで長年連れ添った友のような、確かな馴染みだけが全身を駆け巡っていた。
「《白緋》か……。……確かに、これは俺の獲物だ」
アレンが、低く呟いた。漆黒の瞳に、銀色の刃が冷たく映り込む。彼はその刃をゆっくりと目の高さに掲げ、光の反射を確かめるように見つめ続けた。
「頭じゃ覚えていないが……。体が、こいつの振るい方を覚えている。俺の故国の、戦い方をな」
魔術を消し去る現代の「No.0」としてではなく、ただ一人の武人として刀を捨てられなかった、二千年前の自分自身の我儘と誇り。アレンは静かに、その理外の刃を鞘に収めた。カチリ、という硬質な音が、失われた時の扉を閉ざすかのように、静まり返った工房へ染み渡っていった。
その音を聞きながら、リィナとセリスは互いに視線を交わした。二人の胸には、これまでのアレンとは違う、新たな一面を見た確かな実感が広がっていた。二千年の孤独を越えて、ようやく主のもとへ辿り着いた一振りの刃。それは単なる武器ではなく、アレンという存在の失われた半身が、静かに帰還した瞬間でもあった。




