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航空機のエンジン音が、静かに客室に響いていた。魔導タービンの低い駆動音が、規則正しい振動となって座席の背もたれを伝ってくる。西大陸中央に位置するガルディア公国を発って、すでに十二時間が経過している。窓の外はいつしか漆黒の夜から白々とした夜明けへと移り変わり、さらに雲を突き抜けた先には、東大陸特有の澄み渡った青空が広がっていた。目的地は、遥か東の大陸北部に位置する山岳国家ゼルハルト王国。
「……アレン様、見てください! 山が、雲よりも高いです!」
窓に張り付いたリィナが、銀髪を揺らして声を弾ませた。彼女の淡い青の瞳が、窓越しに広がる景色に釘付けになっている。長時間の飛行に些か疲れが見え始めていた彼女だったが、その光景を前にした瞬間、疲労の色はすっかり消え失せていた。窓ガラスに触れる指先が、無意識に景色をなぞるように動いている。
彼女の視線の先には、世界の背骨のように連なるゼルハルト連峰が、白銀の雪を頂いて屹立していた。幾重にも重なる稜線が、朝日を受けて淡い金色に縁取られ、まるで大陸そのものが巨大な鎧を纏っているかのような威容を放っている。雲海がその裾野を覆い隠し、峰々だけが天空に浮かぶ島のように突き出ていた。
「あれが東大陸の天然の要塞、ゼルハルトの山々ですわ」
アレンの隣で、セリスが凛とした佇まいで窓の外を指し示した。彼女はガルディアの辺境伯令嬢らしい気品を崩さず、アレンへ向かって穏やかに微笑む。長時間のフライトの中でも、彼女の所作には一切の緩みがなかった。膝の上に置いた両手を軽く組み、背筋を伸ばしたまま、まるで謁見の間にいるかのような姿勢を保っている。
「峻険な地ゆえに他国の侵攻を拒み、独自の技術を磨き上げた国……。世界最高の魔石加工技術を持ち、全人類の電力を支える心臓部でもありますわ。アレン様。あのような過酷な地に、一体どのような因縁がありますの?」
セリスの声には、単なる好奇心以上の、確かな懸念が滲んでいた。彼女はこれまでのアレンの反応――あの端末に映し出された「かたな」という五文字に見せた、明確な動揺――を思い返していた。誓導者として、そして共に幾多の戦場を潜り抜けてきた者として、彼女はアレンの内側に眠る「未知の記憶」に対して、僅かな不安を抱かずにはいられなかった。
アレンは長身を座席に預け、黙って眼下を見下ろした。彼の黒い瞳には、これまでの戦闘における冷静さとはまた異なる、静かな緊張が宿っていた。
「……少し、俺の過去に触れる物があるらしくてな」
彼の心はまだ、欠落した第一召喚の記憶を求めていた。二千年前、この世界のどこかで、自分は確かに何かを遺した。その事実だけが、揺るぎない確信として彼の胸に刺さり続けている。だが、その記憶の全貌はいまだ霧に覆われたままで、断片的な感覚だけが、時折鋭く胸を疼かせるのだった。
航空機が高度を下げ始めると、深い谷を埋め尽くす巨大な都市が見えてきた。ドワーフが最も多く住むという、重厚な石造りの鍛冶都市「アイアンフォージ」。谷底に沿って複雑に入り組んだ石造りの建造物が、まるで山肌そのものから生えてきたかのように連なっている。
至る所の巨大な煙突から、濃密な煙と蒸気が力強く立ち昇っている。それは魔石を精錬し、鉱石を打ち、国家の鼓動を刻む音そのものだった。山肌を縫うように走る魔導リフトが、金属製のワイヤーに沿って規則正しく行き来し、時折、遠くから鈍い金属音が聞こえてくる。火花を散らす工房の群れが、都市のあちこちに小さな光の点として散らばっていた。自然の厳しさと、ドワーフの技術が奇跡的に調和した景観がそこにあった。
「……空気が、少し重いですわね」
セリスが微かに眉をひそめ、令嬢らしくハンカチを口元に寄せた。彼女の鋭敏な魔力感知能力が、都市全体を包む濃密な魔力残滓を鮮明に捉えていた。
「魔石の採掘と加工に伴う、高密度の魔力残滓ですわ。アレン様には無意味な心配でしょうけれど、並の魔術師なら魔力酔いを起こしてしまいますわよ」
リィナもまた、窓の外の光景に目を細めながら、僅かに息を詰めていた。慣れない土地特有の濃厚な魔力の気配に、彼女の魔力感知が敏感に反応している。だが、それ以上に彼女の心を占めていたのは、これから訪れる場所で、アレンの過去の一端が明らかになるかもしれないという期待と、僅かな不安だった。
アイアンフォージの空港は、切り立った岩壁を削り取った場所に位置していた。滑走路の両脇には、岩肌がそのまま剥き出しになっており、いかにもこの国の自然環境の厳しさを物語っていた。重厚な衝撃と共に、航空機がゼルハルトの堅い地面へと降り立つ。着陸の瞬間、機体全体がわずかに軋み、座席に座る三人の身体を軽く揺らした。
ハッチが開くと、肺の奥まで凍りつくような冷気が流れ込んできた。そこに含まれるのは、焦げた鉄と油の匂い。ガルディアの華やかさとは無縁の、実直で泥臭い「技術」の匂いだ。西大陸の穏やかな気候に慣れた体には、その冷たさが刺すように感じられた。
アレンはタラップを降り、雪の混じる風を真っ向から受け止めた。彼の黒髪が風に僅かに揺れ、頬に張り付く冷気を意にも介さぬまま、彼はゆっくりと視線を巡らせた。
「……ここにあるんだな。二千年前の俺の注文が」
その言葉には、これまでのどんな戦闘の前にも見せなかった、静かな覚悟が滲んでいた。彼にとって、これは任務ではない。純粋に、自分自身のルーツを辿るための旅だった。
見上げる空は、岩壁に切り取られて狭い。だが、その先にある確かな因縁の気配を、アレンは鋭く捉えていた。彼の直感――迷宮の深層でさえも研ぎ澄まされてきたその感覚が、この閉ざされた山岳都市のどこかに、自分を待ち続ける「何か」の存在を確かに感じ取っていた。
リィナはアレンの隣に並び、冷たい風に身を縮めながらも、しっかりとした足取りで歩き出した。彼女の手には、既に防寒用の外套が握られている。
「アレン様、まずは暖かい格好をなさってください。この寒さでは、お身体に障りますわ」
「俺は問題ない。それより、二人こそ寒くないか」
アレンが振り返り、珍しく気遣うような言葉をかけた。その様子に、セリスは僅かに驚いたように目を瞬かせたが、すぐに凛とした笑みを浮かべた。
「ご心配なく。ヴァレンティア家の令嬢として、このくらいの寒さには慣れておりますわ」
三人は空港の出口へと向かって歩き出した。眼下に広がる鍛冶都市からは、絶え間なく立ち昇る煙と蒸気が、朝の光の中でゆらゆらと形を変えながら空へと溶けていく。遠くから響く鋼を打つ音が、まるでこの都市そのものの心臓の鼓動のように、規則正しく谷間に反響していた。
山岳国家の雄大な雄姿に見守られ、理外の騎士たちの「ルーツを辿る旅」が今、始まった。アレンの胸の奥に眠る二千年の記憶が、この鉄と火花の都市で、ようやくその扉を開こうとしていた。




