19-5
別邸の室内に、静かな衝撃が走っていた。夕闇が窓の外を徐々に侵食していく中、リィナの端末に表示された「かたな」という五文字だけが、テーブルの上で不気味な存在感を放っていた。それは、魔導工学と現代魔術に支配されたこの世界において、完全に浮いた存在だった。
「……刀、だと?」
アレンがその単語をなぞるように呟いた瞬間、脳裏の奥底で、巨大な鉄がぶつかり合うような鋭い火花が散った。視界が白く焼け、漆黒の闇の中に、一筋の銀色が尾を引いて走る。それはほんの一瞬の閃光だったが、脳の奥に強い残像を焼き付けていった。
(……なんだ、この熱は)
胸の奥が、締め付けられるような切なさと、猛烈な渇望で激しく脈打った。それは、現代魔術の粋を集めた「理」を消し去る今の自分とは違う、もっと泥臭く、もっと剥き出しの「己」が叫んでいる感覚だった。指先の関節が、無意識のうちに何かを握り込もうとするかのように、微かに震えている。
(思い出せ……。魔力など持たなかった俺が、あの時、何を握っていた?)
セラフィナによって行われた「第一召喚」。当時の自分には、空気を震わせる魔力も、理を書き換える魔術式も備わっていなかった。その絶望的な無力さの中で、たった一人、愛した女性を守るために──己の腕の一部として信じ、ただ唯一頼りにしていた「形」。
手のひらに残る、硬い柄の感触。鋼が肉を断ち、骨に響く振動。それは武器という道具を超え、異世界という荒野で「アレン」という一人の人間を繋ぎ止めていた、アイデンティティそのものであったはずだ。だが、その記憶はどこまでも霧に覆われたまま、はっきりとした輪郭を結ばなかった。まるで、水面に映る像を掴もうとして、指がすり抜けていくような、もどかしい感覚だけが胸の奥に残っていた。
「アレン様、顔色が優れませんわよ? 大丈夫ですの?」
セリスが椅子から身を乗り出し、心配そうに琥珀色の瞳を覗き込んできた。彼女の声には、これまでの検索作業への集中とはまた違う、明確な不安が滲んでいた。隣のリィナも、茶器を置く手をおぼつかなく震わせ、アレンの服の裾をぎゅっと握り締めている。
二人の視線が、アレンの表情の変化を注意深く追っていた。普段であれば、どんな戦闘に直面しても凪いだままの黒い瞳が、今、明らかに揺れている。それは彼女たちがこれまで見たことのない、アレンの新たな一面だった。
「……いや。少し、思い出そうとしただけだ」
アレンはこめかみを指で強く押さえ、乱れた呼吸を整えた。彼の指先には、冷たい汗が薄っすらと滲んでいる。それは戦闘の熱に晒された時とはまったく異なる、内側から湧き上がるような緊張の産物だった。
二千年前、俺は何を遺した。なぜ、この世界の言葉にはないはずの「かたな」という響きが、これほどまでに魂を揺さぶるのか。アレンは自問を繰り返したが、その答えは霧の向こうに沈んだままだった。
アレンは視線を落とし、メッセージを再読した。文字の一つ一つを、まるで暗号を解読するかのように、丁寧になぞっていく。
『お前様』という呼びかけ。そして、自分の故国「亜連」の言語でしか存在しないはずの語彙。
これが偶然であるはずがない。もし、二千年前の自分がこの世界に「遺し物」をしていたのだとしたら。それは、自分が何者であるかを知るための、唯一の道標になるかもしれない。これまで彼は、第一召喚時の記憶が失われていることに対して、さほど強い執着を見せてこなかった。だが今、その空白が、初めて明確な「欠落」として自分自身を苛み始めていた。
「リィナ。そのメッセージの発信元は、ゼルハルト王国のどのあたりだ?」
アレンの瞳には、先ほどまでの「スパムへの苛立ち」は微塵もなかった。代わりに宿っているのは、冷徹なまでの「意志」の光。それは、彼が任務に臨む時に見せる眼差しとは、また異なる種類の鋭さを帯びていた。
「東大陸の北、山岳地帯の『アイアンフォージ』という都市です。ドワーフの職人たちが多く住む場所だとか」
リィナが慌てて端末を操作し、地図データを表示させながら答えた。画面には、険しい山脈に囲まれた都市の輪郭が浮かび上がっている。
「そうか」
アレンは迷いなく、自身の『アーク・リンク』を操作した。指先の動きには、これまでの苛立たしげな仕草とはまるで違う、明確な目的意識が宿っていた。彼は航空機の手配画面を呼び出し、次々と入力を進めていく。
「……行くんですのね。ゼルハルトへ」
セリスが、既に分かっていたかのように溜息をついた。だが、その声には呆れよりも、むしろ興味深そうな響きが滲んでいた。
「ええ。アレン様がこれほどまでに何かに興味を示されるなんて、初めてですから」
リィナは少しだけ嬉しそうに、けれど引き締まった表情で頷いた。彼女にとって、アレンが自らの過去に対してこれほど強い関心を見せることは、確かに前例のないことだった。いつも「必要ならやる」という淡々とした態度を崩さない彼が、今、明確に「知りたい」という感情を露わにしている。その事実が、リィナの胸に小さな温かさを灯していた。
アレンは、二人の誓導者を見据えた。夕闇の中、応接間の照明が三人の影を長く壁に伸ばしている。
「これは任務じゃない。俺の、個人的な我儘だ。……ついてくるか?」
「当たり前ですわ。あなたの誓導者を、誰だと思っていまして?」
セリスがレイピアの柄に軽く触れながら、凛とした笑みを浮かべた。
「アレン様のおそばにいるのが、私の役目ですから」
リィナも静かに、しかし確かな決意を込めて頷いた。
アレンは窓の外、雲が流れる遥か東の空を見据えた。夕焼けの残照が、遠くの山並みをぼんやりと橙色に縁取っている。
(二千年前の俺。お前はあそこで、何を打たせた……?)
記憶の空白に突き刺さる、一つの武器の名前。それが今の自分にとって、現代魔術の「理」を切り裂くための、新たな魂の半身になるという確信があった。理外の騎士たちの「ルーツを辿る旅」は、一通の不可解なメッセージによって、その幕を開けたのである。
「とりあえず、確認しに行く必要があるな」
アレンの低い声と共に、三人の新たな旅が始まった。目指すは、雲を突く山岳の国──ゼルハルト。そこには、時を越えて主を待ち続ける「鋼の記憶」が眠っている。テーブルの上に置かれたアーク・リンクは、依然として断続的な光を放ち続けていたが、その喧騒はもう、アレンの意識の外側へと静かに追いやられていた。




