19-4
ガルディア公国、宮殿別邸。応接間の窓から差し込む夕暮れの光が、テーブルの表面をオレンジ色に染めていた。だが、その穏やかな光景とは裏腹に、室内には不規則な振動音が絶え間なく響き続けていた。
アレン・ヴァルグレイは、ソファに深く腰掛け、テーブルの上に放り出した自身の『アーク・リンク』を冷めた目で見つめていた。漆黒の端末は、数秒おきに青白い光を放ち、ひっきりなしに受信を告げている。その光の明滅は、まるで端末そのものが息をしているかのようだった。
「……またですか、アレン様」
淹れたての茶を運んできたリィナが、困ったように眉を下げた。彼女の手にした盆の上で、湯気を立てるカップがわずかに揺れる。テーブルにそっと茶器を置きながら、彼女は振動を続ける端末を横目で見やった。
「ああ。アークレストでの一件以来、これだ」
アレンが忌々しげに呟く。彼の指先が、端末の縁を苛立たしげに叩いた。
中継映像による「No.0」の衝撃は、アレンの想像を遥かに超えていた。アーク・リンクに届く通知は、今や一つの「地獄」と化している。画面には次々と新着メッセージが積み重なり、その差出人の名も所属も、あらゆる国と組織に渡っていた。
『帝国軍務院より。特級待遇での仕官を打診したい』
『セレノア魔術学院。名誉教授としての招聘を希望する』
『どこかの令嬢より。あなたの第一誓導者になりたい、と……』
セリスが端末の画面を横から覗き込み、呆れたように肩を竦めた。彼女の琥珀色の瞳が、次々と流れる文面を追いながら細められていく。
「弟子入り志願に、各国の引き抜き、果ては求婚の類まで。……全く、節操のないことですわね」
「通知を切るか。……いっそ、端末を壊すべきか」
アレンが眉間に深い皺を寄せ、本気で端末を握りつぶそうと手を伸ばす。その手には迷いのない力がこもっていた。実際、これまで幾多の理不尽な戦況を「消去」の一言で切り抜けてきた男にとって、この程度の端末を粉砕することなど造作もないはずだった。
「待ってください、アレン様! それは魔軌士局からの支給品ですから!」
リィナが慌ててその手を制した。彼女は両手でアレンの手を包み込むようにして端末から引き離す。その必死な様子に、アレンは僅かに動きを止めた。
「……分かった。壊しはしない」
アレンが渋々といった様子で手を下ろすと、リィナはほっと胸を撫で下ろした。彼女は端末を丁寧にテーブルの端へと寄せ、まるで危険物を扱うかのように距離を取った。
「毎日、こんな調子では、アレン様の心が休まりませんわ」
「休む必要などない。……ただ、うるさいだけだ」
アレンはソファの背もたれに深く身を沈め、腕を組んだ。窓の外では、夏の夕暮れがゆっくりと藍色へと変わりつつあり、庭園の木々の輪郭が徐々に滲んでいく。
アレンが溜息をつき、端末を裏返したその時だった。リィナの懐にある端末が、これまでとは違う、澄んだ受信音を鳴らした。それは、これまで室内に響いていた喧しい通知音とは明らかに異質な、単発で静かな音だった。
「私の方に……? 登録外の、正規回線からです」
リィナが不思議そうに端末を取り出す。彼女の指先が画面に触れると、送信元の情報が表示された。その文字列を目で追ううちに、リィナの眉間に僅かな皺が寄る。
発信元は東大陸北部、山岳国家ゼルハルト王国。そこは世界最高の魔石加工技術を誇る、ドワーフの住まう地であった。世界の電力網を支える鉱石・魔石の一大産地であり、同時に、峻険な山々に囲まれた閉鎖的な文化を持つことでも知られている。
画面に表示された短い一文を読み上げると、リィナの表情が強張った。彼女の指先が、無意識に端末の縁を強く握りしめる。
「アレン様……これ、どういう意味でしょうか」
アレンはソファから身を起こし、リィナの手にある端末を覗き込んだ。セリスもまた、興味を引かれたように視線をそちらへ向ける。応接間に漂っていた気だるい空気が、僅かに張り詰めたものへと変わっていった。
リィナが提示した画面には、荒々しくも格式を感じさせる筆致でこう記されていた。
『ガルディアの特務官へ告ぐ。……お前様、古き言語で「かたな」と呼ばれる銘に、心当たりはあるか?』
「……ッ」
アレンの動きが、一瞬で止まった。彼の黒い瞳が、画面に映る文字列に釘付けになる。それまで気だるげに背もたれに預けていた身体が、まるで見えない糸で引き寄せられたかのように、静かに、しかし確かに強張っていった。
「かたな」──その響き。この世界の現代魔術体系には存在しない、異質な語彙。エルディアの言語体系のどこにも、そのような単語は存在しないはずだった。だが、アレンにとっては、魂の深層に刻まれた故国「亜連」の響きそのものだった。
その一瞬の変化を、リィナとセリスは見逃さなかった。二人の視線が、アレンの横顔に交錯する。
「アレン様……?」
リィナとセリスが、アレンの異変に気づき顔を見合わせる。二人の間に、言葉にならない緊張が流れた。これまで数々の戦場を共に潜り抜けてきた彼女たちにとって、アレンがこれほど明確に動揺を見せることは、ほとんど記憶にないことだった。
セリスは検索エンジンを走らせようと、慌てて自身の端末を操作した。だが、指先を滑らせても滑らせても、該当する記録は一つもヒットしない。魔術辞典にも、古語辞典にも、その単語は影すら残していなかった。
「聞いたこともありませんわね。古語の類かしら」
セリスがそう呟きながら、なおも画面を凝視する。彼女の眉間には、困惑と警戒が入り混じった皺が寄っていた。誓導者として、そして貴族としての知識をもってしても、その単語の出所を突き止めることができない。それが、彼女の内心にわずかな苛立ちを生んでいた。
「……アレン様? 『かたな』とは、何かの魔導具の名前でしょうか?」
リィナが不思議そうに小首をかしげる。彼女の淡い青の瞳が、心配げにアレンの表情を窺っていた。夕暮れの光が窓から差し込み、リィナの銀髪をほのかなオレンジ色に染めている。
アレンは何も答えなかった。彼はただ、端末の画面に表示された五文字を、幾度も、幾度も繰り返し目で追い続けていた。その沈黙の中に、これまでのどんな戦闘にも見せなかった、深い戸惑いの色が滲んでいた。
窓の外では、宮殿別邸の庭園に夕闇が忍び寄り始めていた。虫の声が微かに聞こえ始め、応接間に満ちていた喧騒――絶え間なく届く通知の羅列――が、今この瞬間だけは、まるで遠い世界の出来事のように色褪せて感じられた。
テーブルの上で、アレンのアーク・リンクは相変わらず青白い光を点滅させ続けている。だが、その喧騒の代償として彼が受け取っていた苛立ちは、たった一通の、正体不明のメッセージによって、まったく別の種類の緊張へと塗り替えられようとしていた。




