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八月二十一日。真夏の太陽が容赦なく照りつけるガルディア公国宮殿。石畳の中庭に落ちる木々の影さえ、この時期は濃く、短くなる。その最奥に位置する謁見の間には、外の熱気とは対照的な、ひんやりとした静寂が満ちていた。高い天井から差し込む光の帯だけが、大理石の床にゆっくりと角度を変えていく。
重厚な扉が開く。軍靴の音が石床に等間隔の律動を刻む。その音は、静まり返った広間に規則正しい波紋を広げていった。現れたのは、百九十二センチの長身を黒の戦闘服に包んだ「理外」の男。そして、その両脇を固める銀髪と金髪の誓導者たちだった。三人の歩みには一切の乱れがなく、まるで長年連れ添った者たちだけが持つ、静かな一体感が滲んでいた。
「国際特務官No.0、アレン・ヴァルグレイ。ただいま帰還いたしました」
アレンの声は、激戦の後とは思えないほど平坦で、凪いでいた。腰に響く声の重みだけが、彼がただ帰ってきたのではなく、確かに何かを成し遂げてきたのだという事実を静かに物語っていた。
玉座に座る公王女、エリシア・ヴァルステイン・ガルディアは静かに微笑んだ。扇の陰から覗くその表情には、これまでの緊張が解けたような柔らかさがあった。彼女の瞳には、世界中を震撼させたあの中継映像が焼き付いている。何度も繰り返し再生した記憶の断片が、今、目の前の三人の姿と重なっていく。
(私は、間違っていなかった)
エリシアは内心で深く頷いた。玉座の肘掛けに置いた指先が、僅かに力を込められる。
かつて、アレンをどう扱うべきか、公国内部でも議論が紛糾した。ある者は最強の「兵器」として飼い慣らすべきだと言い。ある者は「政治的駒」として他国へ売り払うべきだと主張した。四大公爵家の一部からは、そうした意見が幾度となく持ち上がり、宰相リオネスや元軍務卿レグナードとの間で幾夜も議論が交わされたことを、エリシアは今でも鮮明に覚えている。
だが、エリシアが選んだのは、彼を自由な「世界の守護者」として遇することだった。
あの中継で見せた、二人の女性を守りながら理不尽な暴力を無に還す孤高の姿。それは、彼女の判断が正しかったことを、全大陸に証明してみせたのだ。窓の外を過る夏の風が、玉座の傍らに垂れる薄絹の帳をわずかに揺らした。
「……顔を上げてください、アレン殿。そしてリィナ、セリスも」
エリシアの柔らかな声が広間に響く。三人はそれぞれの所作で顔を上げた。アレンは相変わらずの無表情で、リィナは控えめに、セリスは凛とした姿勢を崩さぬまま。
「アークレストでの任務、実に見事でした。あなたたちが救ったのは、一つの国家だけではありません。帝国の暴走を止め、世界の均衡を守り抜いたのです」
エリシアの視線が、リィナとセリスに向けられた。かつては内気で、アレンの背中に隠れがちだったリィナ。誇り高くも、自らの限界に苦悩していたセリス。今、彼女たちの瞳には、強大な敵を退けた確かな自信と、主への揺るぎない信頼が宿っている。エリシアはその変化を、誰よりも丁寧に見つめていた。
「リィナ、あなたの障壁がなければ、アークレストの民は熱波に呑まれていました。セリス、あなたの魔術が道を切り開かなければ、勝利は遠かったでしょう。二人の成長を、私は誇りに思います」
「もったいないお言葉です、エリシア様」
リィナが控えめに頭を下げた。彼女の銀髪が、天窓から差し込む光を受けて淡く輝く。
「当然の務めを果たしたまでですわ」
セリスが凛とした口調で応じる。だがその声の端に、隠しきれない誇らしさが滲んでいた。
「アレン殿。改めて、あなたに感謝を」
エリシアが立ち上がり、ゆっくりと壇を降りた。彼女の足音は静かで、それでいて確かな重みを持って謁見の間に響いていく。
「あなたは自らを、ただの『No.0』だと思っているかもしれません。ですが、今や世界はあなたを、混迷する時代を照らす希望として見ています」
エリシアは三人の前に立ち、慈しむような眼差しで彼らを見つめた。政治的な打算を超えた、一人の王としての本心。彼女の青い瞳には、これまで幾多の困難を乗り越えてきた者だけが持つ、静かな確信が宿っていた。
「あなたたち三人の絆は、もはや公国軍の一部門ではありません。……これこそが、我がガルディア公国の誇るべき『至宝』です。どうかこれからも、その輝きを失わないで」
「……善処します」
アレンは短く答えた。彼にとって、世界からの称賛などどうでもいい。中継が世界を駆け巡ったことも、帝国最強の二人を無傷で退けたことも、彼の内面には大した波を立てていなかった。ただ、この公王女が自分たちを「兵器」ではなく「人」として見てくれていること。それだけが、彼がこの国に留まる唯一の、そして最大の理由だった。
エリシアはその素っ気ない返答にも、微かに笑みを深めた。彼女はこの男が言葉少なであることを、もはや不満に思ってはいなかった。むしろ、その飾らなさこそが、彼の誠実さの証であることを理解していた。
「アークレストの街並みは、あなたたちの活躍によって、これから少しずつ元の姿を取り戻していくでしょう。……国王エリオット殿からも、正式な感謝の書状が届いています。追って、そちらもお渡ししますね」
エリシアはそう告げながら、傍らに控えていた侍従に目配せをした。侍従は静かに一礼し、広間の隅へと下がっていく。
報告を終えた三人が退室する段になり、リィナがふと足を止めた。彼女は振り返り、玉座に戻ろうとするエリシアの背に向けて、小さく声をかけた。
「エリシア様……アレン様は、口数が少ないですけれど、本当は皆様のこと、深く考えていらっしゃいます」
その言葉に、エリシアは僅かに目を見開き、それから柔らかく微笑んだ。
「ええ、分かっていますよ、リィナ。……だからこそ、私は彼を信じているのです」
セリスもまた一礼し、静かに三人は謁見の間を後にした。アレンは何も言わなかったが、リィナの言葉を耳にした瞬間、僅かにその足取りが緩んだように見えた。それは誰の目にも留まらぬほど、ほんの一瞬のことだった。
報告を終えた三人が去った後、エリシアは開け放たれた窓から夏の空を仰いだ。庭園では蝉の声が絶え間なく響き、木々の緑が真夏の光を受けて眩く輝いている。その平和な光景を前に、彼女はしばし目を閉じた。
「至宝か。……奪われないように守るのが、私の仕事ね」
彼女の呟きは、熱を帯びた風に溶けて消えた。だが、その言葉の裏には、これから訪れるであろう新たな困難への予感が、静かに、けれど確かに滲んでいた。世界がアレンという「零」を中心に回り始めた今、その均衡を守り抜くことこそが、公女王としての新たな使命であることを、エリシアは誰よりも深く理解していた。
窓辺に佇む彼女の影が、大理石の床に長く伸びていく。宮殿の外では、夏の蝉時雨がなおも止むことなく続いていた。




