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東大陸中央、ヴァルゼン帝国。大陸最強の軍事力を誇る帝都イグナイトは、かつてない静寂と、皮膚を刺すような緊張感に包まれていた。街を行き交う電動車両の走行音すら、いつもより控えめに聞こえる。アークレストから全世界へ同時中継された「帝国最強の敗北」。それは、揺るぎないはずの帝国の武威が、たった一人の男によって否定された歴史的な瞬間であった。
皇宮の奥、重厚な石造りの執務室。空調の低い唸りだけが、部屋に満ちる沈黙を辛うじて埋めていた。皇帝ダリオス・ヴァルゼンは、空中に投影された記録映像を、微動だにせず凝視していた。その眼差しには怒りも動揺もなく、ただ冷徹な観察だけがあった。映像は繰り返し再生され、そのたびに同じ光景が皇帝の網膜に焼き付けられていく。傷一つ負わないまま、糸が切れた人形のように膝をつくヴァルツとアドラの姿。二人の背後で、誓導者たちが崩れ落ちていく様も、鮮明に映し出されていた。
「……最強の二人がかりで、これか」
ダリオスの低く重い声が、室内の空気を数度下げた。彼は冷徹な現実主義者である。軍事、経済、人口すべてにおいて世界一を誇る国家の頂点に立ち続けてきた男が、映像の中でアレンが放った「黒い波紋」の本質を、彼は瞬時に見抜いていた。それは魔術の技量や出力の差ではない。魔術という「理」そのものを根源から断絶させる、理解不能な現象であった。
皇帝の指先が、投影された映像の一点――アレンの右手が無造作に振られる瞬間――で静止した。何度巻き戻しても、そこに「発動」という過程が見出せない。まるで最初から何も存在しなかったかのように、帝国の誇る術式が虚空へと消えていく。その事実こそが、皇帝の脳裏に深く刻み込まれていった。
「軍務院へ通達しろ。アレン・ヴァルグレイを『魔術師』として扱うな」
皇帝はゆっくりと立ち上がり、窓の外に広がる広大な帝都を見下ろした。魔導灯の光が整然と並ぶ夜の街並みは、いつもと変わらぬ静けさを保っている。だが、その景色を見つめる皇帝の胸中には、これまで感じたことのない種類の危機感が渦巻いていた。
「奴は、歩く戦略兵器……いや、抗いようのない天災だ。これより、No.0を単独で国家の存立を脅かす『最優先警戒対象』に指定する」
それは、帝国が建国以来初めて、一個の人間に対して抱いた本物の「畏怖」の表明であった。数百年にわたり、帝国は軍事力と魔導技術によって周辺国家を圧倒し続けてきた。その歴史の中で、皇帝がここまで明確な言葉で一人の男を警戒したことは一度もなかった。窓ガラスに映る自らの顔を見つめながら、ダリオスは静かに拳を握った。
一方、帝国軍務院の地下深く。皇帝の監視の目すら届かない「黒鋼派専用区画」では、凍りつくような怒りと、より残酷な殺意が渦巻いていた。魔力遮断壁の向こうから漏れる空調の音だけが、この密室の存在を辛うじて示している。壁一面に貼られた古代兵器の設計図と、迷宮深層の魔力地図が、青白い光にぼんやりと浮かび上がっていた。
「……反吐が出るな」
黒鋼一席、ダルケン・シュタールが、手元の端末を冷酷に握りつぶした。金属とガラスが軋む音が、静まり返った部屋に響く。モニターの中では、アレンを「世界の守護者」として称賛するコメントが絶え間なく流れ続けている。その一文字一文字が、ダルケンの神経を逆撫でしていた。
「奴を『危険な怪物』として孤立させるはずが、世界中に英雄として宣伝する羽目になるとは。……我々の策が、逆に奴に『無敵の盾』を与えてしまったか」
ダルケンの傍らには、二席のレグナスと三席のヴァルドが静かに控えていた。二人の表情には、これまでのような余裕は微塵も見られない。積み上げてきた計画のすべてが、一夜にして崩れ去ったという事実が、彼らの表情を硬く強張らせていた。
「ダルケン様、もはや魔術的な妨害や、付け焼き刃の物理破壊(爆薬)など無意味です」
レグナスが、自身の指先を見つめながら冷たく告げた。彼の声には、これまでの技術者としての誇りが、静かな諦観と共に滲んでいた。
「アレン・ヴァルグレイという現象を物理的に吹き飛ばそうとするのは、あまりにも非効率。……奴は、己を犠牲にしてでも第一、第二誓導者を守ろうとします」
ダルケンの灰色の瞳が、眼鏡の奥で鋭い光を宿した。彼はホログラムで映し出されたリィナ・フェルウェンとセリス・ヴァレンティアの姿を凝視した。映像の中で、二人の女性がアレンの背後に守られている光景が、繰り返し流れている。
「リィナとセリス……。彼女たちはアレンという怪物を支える『器』であり、同時に彼をこの世界の理に縛り付けている唯一の枷だ」
ダルケンの声に、狂信的なまでの冷徹さが混じる。密室の空気が、一段と重く沈んでいくのが感じられた。
「アレン本人を消す必要はない。……あの『器』を叩き割れ。さすれば、怪物は自ずと制御を失い、内側から崩壊する」
ダルケンは振り返り、レグナスに新たな指示を下した。彼の目には、これまでの焦燥とは異なる、冷たい計算高さが灯っていた。
「二席。爆薬などという原始的な手段は捨てろ。例の試作品……『アーク・ジャマー』の調整を急げ」
「……御意に。標的は、魔力循環における『波長の同調』そのもの。アレンの強大すぎる魔力が、あの二人の器に依存している現状は、私にとって格好の実験場です」
影の中から、レグナスの狂気を孕んだ薄笑いが漏れた。彼の指先が、卓上に投影された魔力波形の資料を撫でるように動いていく。
三席ヴァルドは、腕を組んだまま二人のやり取りを黙って聞いていた。彼の巨躯がわずかに椅子を軋ませる。武断派としての彼にとって、正面からの武力ではなく、絡め手による搦手を選ぶことへの葛藤があった。だが、目の前に突き付けられた敗北の記録を思えば、その葛藤も長くは続かなかった。
「……好きにするがいい。だが、失敗は許されんぞ」
ヴァルドの低い声が、密室の沈黙に沈んでいった。
世界中がアレン・ヴァルグレイの勝利に沸き、平和への希望を抱くその裏側で。帝国最大の「闇」は、アレンの「心」そのものを破壊するための、より非情で、より精密な毒牙を研ぎ始めていた。窓のない地下室に、時計の針の音だけが静かに刻まれていく。誰も口を開かぬまま、それぞれが己の役割を頭の中で組み立て始めていた。この静けさの中で練られる新たな謀略が、やがて世界をどのような方向へと導いていくのか、この場にいる誰一人として、その全貌を見通すことはできずにいた。




