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魔軌士局本局。バルムート王国アルカ・マリティマ、国際中立の象徴たるその石造りの回廊に、軍靴の音が悲鳴のように駆け抜けていた。普段であれば、書類を抱えた事務官たちが静かに行き交うだけの静謐な空間だ。だが今、その秩序は完全に崩壊していた。
アークレスト王国から発信された「全大陸緊急放送」は、世界を繋ぐ魔導通信網――アーク・ネットを通じて、聖域たる局の中枢までを麻痺させていた。天井の高い回廊に、幾つもの緊急通知音が重なり合い、耳障りな不協和音を作り出している。
「馬鹿な……。中継を止めろと言ったはずだ!」
「不可能です! アークレストの正規プロトコルが、外部からの遮断をすべて拒絶しています!」
局内には、かつてないほどの怒号と困惑が渦巻いていた。壁一面に並んだモニターの光が、青白く職員たちの顔を照らし出す。誰の顔にも、事態を理解しきれない者特有の、呆けたような硬直があった。
モニターに映し出されているのは、帝国最強の魔軌士No.1ヴァルツと、天才と謳われるNo.3アドラが、たった一人の男の前に膝をつく姿だった。傷一つ負わぬまま崩れ落ちる二つの巨躯。その男の胸元で鈍く光るアーク・リンクには、白銀の「0」が刻まれている。誰もがその数字から目を逸らせずにいた。
局の最深部、厳重な結界に守られた「番号局」の執務室。窓のないその部屋には、外の喧騒が僅かに漏れ聞こえるだけで、静けさだけが澱のように沈んでいた。番号局長レグノ・フェルシオンは、震える手で自身の眼鏡を拭い、モニターに映る黒髪の男を凝視した。眼鏡のレンズに反射する光が、彼の疲弊した瞳を一層陰らせている。
「No.0……。我々はこれを、単なる空き番号だと思っていた」
彼の声は、地響きのような戦慄に震えていた。長年この局に身を置き、数多の魔軌士の階級を見送ってきた彼にとって、番号とは単なる記号ではなかった。魔力署名の登録、階級の認定、そして番号の発行。魔軌士局が管理するそのすべては、「実力と実績」という絶対的な国際基準に基づいている。五百年の歴史を通じて、その基準が揺らいだことは一度たりともなかったはずだった。
だが、アレン・ヴァルグレイという存在は、その基準そのものを根底から破壊してしまった。帝国軍の象徴であるヴァルツの重圧魔術を霧散させ、アドラの光速攻撃を赤子をあしらうように完封する力。それは現代魔術理論の範疇を超えた、まさに「理外」の力であった。局長は椅子の肘掛けを強く握りしめ、映像が繰り返し流されるたびに、自分の中の常識が一枚ずつ剥がれ落ちていく感覚を味わっていた。
「局長、各国からの問い合わせが止まりません! ガルディアの『0番』に対する公式見解を求めています!」
部下が扉を叩くようにして飛び込み、悲鳴に近い声で叫んだ。書類を抱えたその手も、明らかに震えている。局長レグノは片手でそれを制した。
「見解など、一つしかない。……彼が、新たな最強だ」
局長は重々しく口を開き、端末に指を走らせた。指先の動きは緩慢だったが、その奥には確固たる決意が宿っていた。これまで魔力循環誓約によって高められた魔力こそが最強とされてきた世界の常識が、今、アレン・ヴァルグレイという一人の男によって塗り替えられたのだ。局に属する誰もが、その事実を認めたくないという抵抗と、認めざるを得ないという諦観の間で揺れ動いていた。
「No.0という番号は、埋められるべき欠番ではなかった。……そこは、誰も到達してはならない、絶対的な『零』の領域だったのだ」
彼が認めたのは、番号の正当性だけではない。アレンの実力が、既存のNo.1からNo.100に連なる特級魔軌士の序列を、もはや無意味なものに変えてしまったという事実だった。五百年かけて積み上げられてきた「実力による序列」という理念そのものが、たった一人の異物によって、その頂点を静かに明け渡そうとしていた。局長の脳裏には、これまでこの制度を守るために費やしてきた膨大な労力が過ぎった。だが不思議と、そこに屈辱よりも、ある種の安堵に似た感情が滲んでいることに、彼自身も戸惑いを覚えていた。
数分後、魔軌士局の名において、全世界の魔術師および魔軌士へと向けた緊急通達が発せられた。それは国際機関としての体面を捨ててでも、世界の均衡を守るための苦肉の策であった。局員たちが慌ただしく端末を叩き、承認のための署名が幾重にも積み重なっていく。誰一人として、この決定に異を唱える者はいなかった。
『全魔術師へ告ぐ。魔軌士No.0、アレン・ヴァルグレイへのあらゆる敵対行為・干渉を厳禁とする』
通達の内容は冷徹だった。それはアレンを保護するためのものではない。彼の「理外」の力に触れ、既存の秩序がこれ以上破壊されるのを防ぐための、世界への警告であった。文面を練り上げる過程で、幾人もの局員が「これは局の敗北宣言に等しい」と囁いたが、誰もそれを声高に主張することはできなかった。現実を前にすれば、それ以外の選択肢が存在しないことを、皆が理解していたからだ。
「干渉禁止命令、だと……? 国際機関が、一人の男に屈したというのか」
中継を見ていた各国の魔軌士たちは、その通達に息を呑んだ。だが、画面の中でリィナとセリスを従え、静かに戦場を去るアレンの背中は、その命令こそが唯一の正解であることを雄弁に物語っていた。数十億の視線が、その一人の男の背中に注がれ、誰もが同じ結論へと辿り着きつつあった。
ここに、魔軌士No.0の正当性は国際的に確立された。それは同時に、アレン・ヴァルグレイという「零」を中心に、世界の力学が回り始めたことを意味していた。石造りの回廊には未だ軍靴の音が響き続けていたが、そこに満ちていたのは、先刻までの混乱ではなく、新たな秩序の始まりを予感させる、緊張を孕んだ静けさへと変わりつつあった。




