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迷宮『蒼風峡谷』、二度目の攻略が始まった。
前回の十階層日帰りを踏まえ、今回の遠征方針は「行けるところまで行く」という単純かつ過酷なものだ。
一階層から十階層までの道のりは、もはや「散歩」ですらなかった。
物陰から飛び出してくる魔獣に対し、アレンは歩みを止めることさえしない。彼の指先がわずかに動くたび、無詠唱で放たれる《光束魔術》が、物理法則を置き去りにする速度で敵の核を正確に貫通していく。
「アレン様……。本当に、強すぎます……」
「そうか? まだ、何もしていない感覚なんだがな」
アレンはどこか居心地が悪そうに応じた。リィナは自身とアレンを包む《三重魔導護膜》を維持し、返り血一滴浴びることなくその後ろを追う。周囲の魔軌士たちが数日がかりで血を吐きながら挑む壁を、二人はわずか数時間で、塵一つ立てずに通り抜けてしまった。
十一階層。ここから迷宮の構造は、血管のように複雑に入り組み始める。
リィナは一度立ち止まり、アーク・リンクで最新の地図(MAP)データを空中に展開した。
「ここからは道が入り組んでいて迷いやすいので、慎重に進みましょ……」
だが、リィナが複雑な術式の地図を読み解くより早く、アレンが自然な足取りで歩き出した。迷いなど微塵も感じさせない、最も効率的なルートを辿る確かな歩み。
「アレン様……。なぜ、一度も立ち止まらずに正解を選べるのですか?」
「え? なんとなく、こっちの方が空気が澄んでいる気がしたんだ」
アレンの《魔力直接操作》は、無意識のうちに大気中の魔力流を読み取っていた。淀んだ魔力の溜まり場を避け、流動の激しい「出口」への道筋を、本能で感知しているのだ。リィナはその底知れぬ適応能力に、畏怖に似た戦慄を覚えた。
十二階層から十五階層。アレンの直感による先導で、二人はかつてない速度で中層を駆け抜けた。中層の守護獣もまた、閃光の一撃で静かに沈む。「強すぎます」と繰り返すリィナに、アレンは不思議そうに首を傾げるばかりだった。
その夜、二人は十六階層の安全地帯で休息を取った。
深層に入る前の、嵐の前の静けさ。リィナは慣れた手付きで、アレンに《三重魔導護膜》をかけ直す「朝の儀式」を準備する。
「無理をするなよ、リィナ。魔力の提供は俺がいくらでもするが、精神的な疲れは別だろ」
「はい……。でも、アレン様が隣にいてくださるだけで、私は大丈夫ですから」
見上げるような背丈の青年に見守られ、リィナは微かな安堵の中で静かに瞼を閉じた。
二日目。舞台は十六階層から、魔の領域である「深層」へと移る。
階層ごとの面積が爆発的に広がり、歩行距離が増えるにつれ、リィナの体力は徐々に削られていった。
「リィナ、一度休むか?」
「だ、大丈夫です……! まだ行けます……っ!」
戦闘そのものはアレンが瞬殺するため、戦傷による疲労は皆無だ。だが、二十一階層を越えた辺りから、迷宮そのものが放つ「魔力圧」が決定的に変質した。
普通の探索者なら肺を押し潰され、呼吸すら困難になるほどの重圧。上級魔軌士以上でなければ生存すら危うい、濃密で粘り気のある極限の環境だ。リィナはバリアで負荷を軽減しているが、その精神的な摩耗は激しさを増していく。
一方で、アレンは鼻歌でも歌い出しそうなほど平然としていた。膨大な魔力の核を持つ彼にとって、この程度の魔力圧は無風の野原を歩くのと同義だった。
二十五階層。そこは、王都の精鋭たちですら到達が稀な、完全なる「無人」の領域だった。
「……誰も、いませんね……」
「そうなのか? まだ入り口からそれほど歩いていない気がするが」
感覚が麻痺しているアレンの前に、巨大な深層ボスが姿を現した。
『蒼風峡谷』の主の一角。大気を震わせる咆哮を轟かせようとしたその威容。だが、その顎が開くよりも早く、アレンの指先から鋭い閃光が走った。
ドシュッ、と肉を焼く音が一度。
巨躯の胸にある「核」を光束が貫通し、ボスは反撃の機会すら与えられぬまま、淡い光の粒子へと崩壊した。
「……これが、初めての二十五階層ボス……。なのに……あまりに静かすぎます……」
「倒したぞ、リィナ」
「は、はい……っ!」
未攻略層の踏破という歴史的快挙は、アレンの無関心さゆえに、あまりにも淡々と、日常の一コマのように成し遂げられた。
その夜、二人は二十六階層の安全地帯でキャンプを張った。隣で泥のように眠るリィナの寝顔を見つめ、アレンは自身の大きな掌を握りしめる。
(この力があれば、彼女をどこまでも守り抜ける……。いや、守らなきゃいけないんだ)
三日目。復路。
深層から中層、そして浅層へ。戻るほどに魔力圧は弱まり、リィナの足取りも目に見えて軽くなっていく。
アレンが道中の魔獣をことごとく「排除」したため、戦闘時間は実質ゼロ。二人は一度も足を止めることなく、わずか一日で地上への帰還を果たした。
「アレン様……。本当に、三日で深層を往復してしまいました……」
「そうなのか? 意外と早かったな」
「そうなのですっ……! 普通は一ヶ月かかる大遠征なんですから!」
茜色に染まるアルヴェンの街並み。
三日間の「散歩」を終えたアレンの大きな背中は、リィナの瞳に、もはや神話に語られる英雄のそれと同じ重みを持って映っていた。




