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王都アルヴェンの北側に位置する、四大迷宮『蒼風峡谷』の一〇階層を日帰りで踏破したその夜。
迷宮街の片隅にある安宿の狭い一室で、アレンとリィナは小さな木机を挟んで向かい合っていた。窓の外では二つの月が静かに並び、銀色と青白の光が重なり合って室内の陰影を濃く落としている。
「次は……行けるところまで行ってみようと思う」
アレンが低い声で切り出すと、リィナは深く、噛み締めるように頷いた。だが、その淡い青色の瞳には、一人の誓導者としての慎重な色が宿っている。
「準備を万全にしましょう。深層は、これまでの初心者層とは比べものにならないほど過酷です。魔力圧も上がりますし、何より補給が生命線になりますから」
リィナの凛とした厳しい横顔。アレンはその献身的な姿勢に全幅の信頼を寄せ、「ああ、リィナに全部任せるよ」と短く応じた。
翌日。二人は王都の活気溢れる探索者向け雑貨屋へと足を運んだ。
店内は、高純度のポーションや頑強な魔導具を求める魔軌士たちの熱気で溢れ、独特のオイルと薬草の香りが鼻腔を突く。店の奥、重厚なガラスケースの中に一点の革カバンが厳重に展示されていた。
「これは……『収納カバン(三倍容量)』ですね。深層へ挑むなら、必須の装備です」
リィナが真剣な面持ちで値札と睨めっこを始めた。迷宮深層での長期滞在には、膨大な食料と機材の運搬が不可欠だ。店員が寄ってきて、「最新の空間拡張術式を定着させておりまして、見た目以上の質量を軽減できます」と饒舌に語り始める。
アレンはその説明を聞き流しながら、無意識に「理外の視界」を研ぎ澄ませた。
見下ろすように、彼の眼がカバンの内部構造を透過する。
(……魔力回路が、ひどく入り組んでいて無駄が多い。これでは変換効率が悪すぎて、すぐに術式が劣化するな)
魔術式というフィルターを介さず、現象を直接引き起こす《魔力直接操作》を持つアレンからすれば、その高価な収納具はひどく拙い、子供の工作のように見えた。
(もっと単純に、空間そのものを切り離して固定すればいいのか……?)
思考の海に沈んだアレンは、リィナの袖を軽く引いた。
「リィナ、これは……また今度にしよう。もっといい方法がある気がする」
リィナは名残惜しそうにしながらも、アレンの言葉を信じて店を出た。
代わりに向かった食料品店や薬局で、彼らは大量の乾パン、燻製肉、簡易テント、そして各種ポーションを買い込んだ。アレンの逞しい両手は、瞬く間に巨大な荷物で埋まっていく。
支払いはすべて、リィナの薄くなった財布から。アレンは完全に「荷物持ちのヒモ」状態だ。
店を出て、人通りの途絶えた薄暗い路地に入った時、アレンがふと足を止めた。
「……あ、できた」
「え……? 何がですか、アレン様?」
リィナが不思議そうに振り返った瞬間。
アレンが空いた右手の指先で、虚空を静かになぞった。
そこには幾何学的な魔法陣も、詠唱の残響も存在しない。ただ、空間がバターをナイフで切るように音もなく歪み、アレンの魔力に呼応して、一切の光を反射しない「無」の穴が開いた。
──《空間収納》。
容量は無制限。内部の時間は完全に停止し、腐敗さえも防ぐ。世界の理を力ずくで書き換えた、アレン独自の「現象」だった。
「……アレン様。これは、絶対に、人前で使ってはいけません」
リィナは驚愕を通り越し、青ざめた顔で周囲を警戒するように見渡した。物流の常識、ひいては一国の経済や軍事バランスを容易に崩壊させかねない禁忌の力。
「わかった。リィナが言うなら守るよ」
アレンは素直に従い、両手の重い荷物を次々とその黒い裂け目へと吸い込ませ、空間を閉じた。
次に二人が訪れたのは、職人気質の漂う靴屋だった。
「アレン様、正直に言います。私たちが結んだ『誓約』と《三重魔導護膜》があれば、服装は何でも構いません。ですが──」
リィナがアレンの足元を鋭く見つめる。
「靴だけは別です。足元の安定こそが迷宮の生命線。滑りや躓きが、深層では即、死に繋がりますから」
二人は迷宮仕様の、鉄のように頑強な最高級ブーツを購入した。
支払いを終えた瞬間、リィナがふにゃりと、幽霊のように肩を落とした。
「アレン様……。今日のお買い物で、お金が……私の全貯金が、一銭もなくなってしまいました……」
「……おう。明日から、死ぬ気で稼ぐしかないな」
屈強な骨格を持つ男は、申し訳なさそうに身を縮め、けれどどこか楽しそうに、自分を信じてすべてを投げ打ってくれた少女へ向けて笑った。
翌朝。宿のチェックアウトを済ませたリィナは、二人を包む空気を引き締めるように、いつもの「儀式」を始めた。
「《三重魔導護膜》、展開」
アレンと自分を包み込む、三層の淡い光の殻。アレンはその魔力の揺らぎを、魂が震えるような心地よい痺れとして感じながら、リィナの隣に立った。
「アレン様。今日は……本当に、行けるところまで行きましょう」
「ああ、リィナ。任せた」
迷宮都市の冷たい朝空を切り裂き、二人は再び、底知れぬ『蒼風峡谷』の深淵へと歩み出した。運命という名の、二度目の遠征が始まる。




