18-8
ガルディア公国、軍用航空基地。
早朝の冷たい空気が、アスファルトの熱を奪っていく。滑走路脇に整列した整備員たちの吐く息はまだ白く、遠くの空には夜明けの残滓が薄紫色の帯となって漂っていた。滑走路の中央では、ガルディア公国軍が誇る魔導航空機が、その銀翼を休めていた。機体表面に施された防魔塗装が、朝日を鈍く反射している。
アレン・ヴァルグレイは、黒い軽装戦闘服の胸ポケットに手を忍ばせた。指先に触れるのは、硬質な魔導端末の感触。そこには、漆黒の背景に白銀で「0」の数字が刻まれている。冷たいはずのその筐体は、常人には感知できないほどわずかな熱を帯びていた。アレン自身の魔力に呼応した反応であることを、彼はすでに把握していた。
「……0、か」
世界で唯一の番号。魔術体系の外側に立つ「理外」の証。今日、この端末は初めて、国際任務の認証キーとして起動する。数百年続いた魔軌士局の歴史の中で、誰一人として背負ったことのない数字だった。それを軽く親指で撫でながら、アレンは特に感慨を見せることもなく、視線を機体へと向けた。
アレンの両脇には、二人の誓導者が並んでいた。銀髪を揺らすリィナは、白を基調とした軍用ローブを纏っている。すそが朝風にわずかに揺れ、その下から覗く表情には緊張と誇らしさが入り混じっていた。金髪を凛となびかせるセリスは、漆黒の軍服の上に、気品ある防魔ローブを纏っている。二人の瞳には、主と共に世界へ踏み出す、静かな誇りが灯っていた。
数日前、魔軌士局からの公式通達が届いた。特務官「No.0」としてのアレンへの初任務。行き先は、東大陸の東端――技術国家アークレスト王国。
任務内容は、アザルによる精神汚染から解放された同国の再建支援。そして、今なお各地で暴走を続ける「古代魔導兵器」の鎮圧である。通達書には、アークレストの被害状況を示す複数の写真が添付されていた。崩れた建造物、焼け焦げた市街地、そして瓦礫の合間で立ち尽くす民の姿。リィナはその写真を見るたびに、胸の奥が締め付けられるような痛みを覚えていた。
「アレンを派遣することで、アークレストとの関係を盤石にする。同時に、No.0の権威を世界に知らしめる……。公女王陛下も策士ですわね」
セリスが手元の資料を閉じ、呟いた。紙面には、エリシアの筆跡による簡潔な指示が記されていたが、その一行一行の裏に張り巡らされた政治的意図を、セリスは正確に読み取っていた。
「俺には関係ないことだ」
アレンは淡々と応じる。政治的な意図など、どうでもいい。ただ、頼まれたから行く。それだけのことだった。エリシアの思惑がどれほど精巧に組み立てられていようと、アレンにとっての判断基準はいつも変わらない。守るべき者が無事であるかどうか、それだけだ。
「アレン様……」
タラップを上がる直前、リィナがそっとアレンの袖を引いた。不安げに揺れる淡い青の瞳が、アレンを見上げる。整備員たちの遠くのやり取りが、風に紛れて聞こえてくる。
「……緊張なさっていますか?」
「いや、任務自体はどうでもいい」
アレンは即答した。その声に嘘はない。世界中の視線が集まろうと、彼の心は凪いでいた。むしろ気にかかっているのは、任務の内容そのものよりも、隣に立つ二人が無事に戻れるかどうかという、ただそれだけだった。
「……どうでも、いいのですか?」
セリスが呆れたように眉をひそめる。片眉を上げるその仕草には、長年の付き合いから生まれた慣れが滲んでいた。
「ああ。俺はただ、二人が無事ならそれでいい」
迷いのない言葉。リィナは頬を赤らめ、セリスは小さくため息をついて視線を逸らした。だが、二人の口元には、微かな安心の笑みが浮かんでいた。周囲に控えていた整備員の一人が、その様子に気づかぬふりをしながら、そっと目を細めていた。
三人が機内に入ると、重量感のあるハッチが閉ざされた。魔導エンジンが駆動し、キーンという高周波の音が鼓膜を震わせる。滑走路に描かれた巨大な魔力陣が青白く発光し、大気が激しく震えた。
重力から解き放たれる独特の浮遊感。機体が急上昇する中、アレンは窓の外を眺めた。眼下には、模型のように小さくなっていくガルディアの街並みが広がっている。宮殿の白い尖塔、市場の屋根が連なる旧市街、そしてその向こうに広がる深緑の森。見慣れたはずの景色が、離陸のたびに新鮮な色を帯びて見えることに、アレンはわずかに目を細めた。
(……これが、No.0としての最初の空か)
ポケットの中のアーク・リンクが、主の魔力に呼応して微かに熱を帯びた。まるで、これから向かう先を予感しているかのように。
リィナは隣で静かに手を合わせ、祈るように目を閉じている。唇がわずかに動き、何かを小さく呟いているようだったが、その言葉はエンジン音にかき消されて誰の耳にも届かなかった。セリスは機内デスクで任務資料を読み込みながらも、時折、鏡越しにアレンの横顔を盗み見ていた。その視線に気づかれぬよう、彼女はすぐに資料へと目を戻す。
「アレン様。アークレストの被害報告です。王都周辺の魔導回路網は、依然として三割が麻痺したままのようです」
リィナが真剣な表情で、地図データを広げた。指先で示された箇所には、赤い警告マークがいくつも点滅している。
「古代兵器の動力源についても解析が進んでいますわ。アザルの施した偽装式は、魔術消去では反応しない特殊な構造のようです」
セリスが厳しい表情で付け加える。眉間にわずかに皺が寄り、彼女らしい慎重さがその声に滲んでいた。
二人の熱心な分析を余所に、アレンはゆったりと椅子に背を預けていた。まるでバカンスに向かう観光客のような、あまりにも落ち着き払った態度。窓の外を流れる雲の陰影を、なんとなしに目で追っている。
「……アレンさん。本当に、緊張していないのですか?」
セリスの問いに、アレンは窓の外を見つめたまま頷いた。
「ああ。どうせ全部なんとかなるし」
根拠のない自信ではない。すべてを無に帰す「零」の力をその身に宿しているからこその、絶対的な事実。二人は呆れつつも、その言葉に確かな「勝利」の予感を感じ取っていた。長い付き合いの中で、彼のこうした言葉が空虚な強がりではないことを、二人は誰よりもよく知っていた。
数時間の飛行を経て、窓外の景色が一変した。眼下に広がるのは、瓦礫の山と、あちこちに立てられた再建用の足場。かつて大陸随一の技術を誇ったアークレスト王国の、痛々しい姿だった。整然と並んでいたはずの街路は、あちこちで寸断され、焼け跡の黒い染みが地表に刻み込まれている。
アザルが残した精神汚染。そして、制御を失い暴れ回った古代兵器。それらが刻んだ深い傷跡が、美しい街並みを無惨に引き裂いている。
「……アレン様。王都アークレインです」
リィナの声に、悲しみが混ざる。窓ガラスに額をそっと近づけ、荒廃した街を見下ろすその瞳には、単なる同情以上の、痛みに近い感情が滲んでいた。
「そうか。じゃあ、行こうか」
アレンは立ち上がった。その声は驚くほど軽かった。だが、その瞳の奥には、立ち塞がる「理」をすべて消し去るという、冷徹なまでの覚悟が宿っていた。
ガルディアス・ウィングが、アークレイン軍用滑走路に滑り込んだ。タイヤが地面を叩く衝撃と共に、逆噴射の魔力が大気を切り裂く。機体が完全に停止するまでのわずかな時間、機内には誰の声もなく、ただエンジンの余韻だけが響いていた。
タラップが降り、ドアが開く。外には、若き新国王エリオット・アークレストと、巨躯を揺らす魔軌士No.4グラディウス・ファルマードが、固い表情で待ち構えていた。二人の背後には、疲弊しきった様子の護衛兵たちが、それでも姿勢を崩さずに整列している。
アレンは一歩、アークレストの地に足を踏み出す。焦げた鉄と土埃の匂いが、鼻先をかすかに刺した。胸ポケットのアーク・リンクを軽く叩き、銀色の「0」を意識する。
「行くか。……No.0として」
アレン・ヴァルグレイ。世界を拒絶し、世界に頼られる「理外の男」の、国際的な戦いが幕を開けた。




