18-5
「……No.0、だと?」
番号局長レグノが、耳を疑うように聞き返した。声には隠しきれない困惑が滲んでいる。公女王エリシアの口から放たれたその数字は、魔軌士局の五百年の歴史において、一度たりとも存在したことのない空位だった。局の創設以来、番号は1から順に、実力と実績によってのみ与えられてきた。その根幹を揺るがす提案が、今、目の前で軽やかに、しかし確かな重みを持って発せられたのだ。
「ええ。監視という消極的な措置ではなく、より建設的な解決策を提案いたしますわ」
エリシアは背筋を伸ばし、澄んだ瞳で局長たちを射抜いた。窓から差し込む光が彼女の淡い金の髪を縁取り、その姿にはどこか神々しさすら漂っていた。
「アレン・ヴァルグレイを、魔軌士局の『直轄特務官』に任命してはいかがかしら?」
会議室に、目に見えぬ激震が走った。監視に来たはずの局員たちが、逆に「権限の付与」という予想外の提案を突きつけられたのだ。資格局長セレナは、思わず口を半開きにしたまま、隣の番号局長レグノと視線を交わした。二人の顔には、この場をどう処理すべきか判断しかねる戸惑いが浮かんでいる。
「正気ですか、公女王陛下」
資格局長セレナが、困惑を隠さずに身を乗り出した。書類を握る指先がわずかに強張っている。
「特級魔軌士の維持費がどれほどか、ご存知のはずですわ。我ら局には、彼を雇う予算など……」
「その心配は不要ですわ」
エリシアは優雅に、しかし迷いのない声でその言葉を遮った。
「アレン殿は引き続き、ガルディア公国の正式雇用者として留まります。……彼の年俸は、すべて我が国が支払い続けましょう」
その一言に、局長たちの顔色がはっきりと変わった。魔軌士局は「軽量型」の国際行政機関であり、巨額の予算を保有していない。局員たちの給与や事務経費すら、加盟国からの拠出金で細々と賄われているのが実情だった。それにもかかわらず、特級魔軌士という人類最強クラスの戦力を、一銭も払わずに「局の駒」として自由に使える。それは、組織として抗いがたい、毒入りの蜜のような提案だった。
「局はただ、彼に『特務官』としての権限と、No.0の番号を付与するだけでいい。……それだけで、彼はガルディアの私兵ではなく、国際秩序を守る公務員となりますわ」
資格局長セレナは、その言葉の巧妙さに内心で舌を巻いていた。監視という檻を、権威という名の冠へとすり替える。しかもその冠を維持する費用は、すべてガルディアが負担するという。局にとって、これほど都合の良い話はどこにもなかった。
エリシアの論理は、精密な機械のように寸分の隙もなく組み立てられていた。
特務官となれば、アレンには国際的な免責特権が与えられる。いかなる国家の法にも縛られることなく、彼の行動は国際機関の名の下に正当化される。さらに、国境を越えた「国際任務」の遂行権までもが、法的に保証されることになる。それは、これまで各国が個別に警戒し、恐れてきたアレンという存在を、逆に「国際社会全体の資産」へと転換させる仕組みだった。
「アレンを監視対象とすれば、他国は彼を恐れ続け、不必要な軍拡を招くでしょう」
エリシアは冷徹に、各国の痛いところを突いた。彼女の視線は資格局長セレナから番号局長レグノへ、そして監察官へと順に移っていく。誰一人として、その言葉を遮ることができなかった。
「ですが、彼を『国際機関の正義』として組み込めばどうかしら? 彼はもはや脅威ではなく、世界を迷宮の深層から守るための『共通の盾』となるのです」
それは、アレンを「危険人物」として排除しようとした黒鋼派の計画を、根底から覆すものだった。排除ではなく、国際的な「公認」を与える。エリシアは、アレンという劇薬を、国際社会という器に流し込むことで無害化――いや、むしろ神聖化しようとしていた。彼女の言葉一つ一つが、局員たちの脳裏に新たな可能性を刻み込んでいく。
壁際で成り行きを凝視していた帝国の密使は、背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。彼の呼吸は、意識せずとも浅くなっていた。
(……馬鹿な。これでは、排除どころか奴に『公的な剣』を与えることになる!)
黒鋼派の描いた筋書きでは、アレンは孤独な怪物として世界から疎まれるはずだった。国際社会の恐怖と拒絶の中で、ガルディアという後ろ盾すらも徐々に力を失っていく――それが彼らの描いた未来図だった。だが、エリシアの提案が通れば、事態はまったく逆の方向へと転がり始める。アレンは魔軌士局の威光を背負い、帝国の干渉さえ跳ね除ける絶対的な権限を手にすることになるのだ。
密使は、拳をきつく握りしめた。何か反論の糸口はないかと必死に思考を巡らせるが、この場で彼が発言できる立場ではない。オブザーバーとしての彼の役割は、あくまで観察と報告のみに限られていた。今この瞬間、彼にできることは、この逆転劇を無力にただ見届けることだけだった。
「……検討の余地は、ありますわね」
資格局長セレナが、重々しく口を開いた。その声には、先ほどまでの断定的な響きはもう残っていなかった。隣の番号局長レグノも、腕を組んだまま何度も小さく頷いている。No.0という数字が持つ「秩序の守護者」としての政治的価値に、彼は強く惹かれている様子だった。既存の序列を壊すことなく、むしろその外側に新たな権威を打ち立てる――それは局の伝統を守りながら、同時に新しい時代の要請にも応える、絶妙な均衡点であるように思われた。
「ええ、じっくりと考えてくださいませ」
エリシアは勝利を確信した笑みを浮かべ、ゆったりと椅子に背を預けた。窓の外では、宮殿の庭園に風が渡り、木々の葉がさやさやと揺れている。その穏やかな光景とは対照的に、円卓を囲む者たちの内心は、それぞれの思惑で激しく渦巻いていた。
「アレン・ヴァルグレイを世界から遠ざけるのか。それとも、彼を世界の守護者として迎え入れるのか。……賢明な魔軌士局の皆様なら、答えは明白ですわ」
その言葉を最後に、エリシアは静かに口を閉ざした。あとは、局側がどのような結論を導き出すか――その判断に委ねるのみだった。
黒鋼派の「排除計画」は、公女王の知略によって、アレンを国際的な頂点へと押し上げる「特権化」へと、鮮やかに反転しようとしていた。会議室に満ちていた凍てつくような緊張は、いつしか別の種類の緊張へと姿を変えていた。それは、世界の秩序そのものが塗り替えられようとしている予感に満ちた、静かな昂りだった。




