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六月二十一日。世界中の『アーク・リンク』に、不気味な「真実」が静かに流し込まれた。発信源は特定不能。魔力署名は入念に偽装され、追跡を試みた者たちの手を虚しくすり抜けていく。だがその映像には、疑いようのない生々しさがあった。バルムート晩餐会にて、アレン・ヴァルグレイが「魔術そのもの」を跡形もなく消し去った、あの決定的な瞬間である。
「……ありえない。術式の構成要素すら残っていないのか?」
学術国家セレノアの、セレノア魔術学院。老練な魔術学者が、震える指先で端末の映像を繰り返し再生していた。彼の研究室には、何十年も積み重ねてきた魔術式の解析ノートが山と積まれている。魔術師にとって、一生を懸けて構築した術式は命そのものだ。それを指先一つで「無」に帰すアレンの力は、彼の目には尊敬の対象としてではなく、生理的な恐怖と嫌悪の混じった何かとして映った。画面の中で毒杯の魔術構造が音もなく崩れ去る様を見つめながら、学者はいつしか椅子の肘掛けを強く握りしめていた。
瞬く間に、国外のSNSや研究論文サイトは「アレン・ヴァルグレイ」の名で埋め尽くされていく。誰もが自分の言葉で、自分の恐怖を語り始めた。
『魔術消去は現代魔導文明の破壊者である』
『ガルディア公国は、国際秩序を崩壊させる人型兵器を隠し持っていた』
『制御不能なNo.11。奴は世界均衡を破壊する毒だ』
投稿は投稿を呼び、憶測は憶測を重ね、事実の輪郭はやがて曖昧に溶けていった。情報の毒液は、人々の「未知への恐怖」を燃料に、大陸全土を黒く染め上げていく。魔術という文明の根幹を、指一本で無効化する存在。その事実だけが独り歩きし、アレンという人間の輪郭は、恐怖という色に塗り替えられていった。
ガルディア国内では、アレンは変わらず「国防の英雄」として称えられていた。街角の酒場でも、市場の露店でも、人々は彼の名を誇らしげに口にする。だが、一歩国境を越えれば、その評価は真逆の「怪物」へと変貌していた。
ヴァルゼン帝国、軍務院地下。ダルケン・シュタールは、暗い部屋の中でホログラムを見つめていた。大陸各地の反応データが、リアルタイムで宙に流れ込んでくる。恐怖の言葉が、憎悪の言葉が、次々と地図上に赤い光点として灯っていく様は、まるで疫病の感染図のようだった。
「情報の伝播は想定以上だ」
ダルケンの声には、冷たい満足があった。
「……人は、自分たちの理解を越えた強者を、正義とは呼ばない」
その言葉は、彼自身の経験則から出たものだった。力は、理解されなければ恐怖にしかならない。理解を拒む力は、いずれ排除されるべき異物として扱われる。それが世界の摂理だとダルケンは信じていた。そして今、その摂理を利用し、アレンという「理外」の存在を確実に追い詰めつつある。
アークレスト王国の軍部からは「アレンが自国の魔術結界を無効化する懸念」が表明され、防衛省の高官が公式声明でその危惧を口にした。アグニス王国の騎士団は「魔術を否定する卑怯者」として公式に不快感を示し、武を尊ぶ彼らの誇りは、魔術そのものを消し去る力への強い反発として表面化した。黒鋼派の仕掛けた「政治的な暗殺」は、刃を一切用いることなく、アレンの居場所を国外から着実に奪い去っていた。
六月二十六日。特定国家に属さない国際機関、魔軌士局の本部。そこでは、ガルディア国内の英雄視など一切通用しない、乾いた「規律」だけが支配していた。石造りの会議室は、外の陽光すら届かぬほど重厚な空気に満ちている。
「……アレン・ヴァルグレイの能力は、本局が定義する魔術体系の枠外にある」
資格局の高官が、低く抑えた声で切り出した。彼の手元には、黒鋼派が巧妙に誘導した「アレンは魔軌士局の監視を拒んでいる」という捏造された報告書と、危険性を煽るために丹念に加工された分析データが並んでいる。文書はどれも一見客観的な体裁を装っていたが、その行間には明確な悪意が潜んでいた。
「魔術消去は、国際的な安全保障に対する重大な懸念材料だ。現状、奴は局の管理を無視し、ガルディア公女王の私兵として動いている」
その言葉に、居並ぶ局員たちの間に静かなざわめきが広がった。彼らにとって、魔軌士番号は世界の秩序そのものである。それぞれの実力と実績によって定められた序列こそが、迷宮国家群の均衡を保つ最後の砦だと信じられてきた。その秩序に従わない「理外」の存在は、彼らの目には正すべきエラーとしてしか映らなかった。
「議題を提出する。特級魔軌士No.11、アレン・ヴァルグレイ」
局長オルディス・マリクレインが、静かに書類を閉じた。その所作には、長年局を率いてきた者らしい重々しさがあった。
「同人物に対し、国際秩序の維持を目的とした『常時行動監視』、および『能力使用の制限』を検討すべきである」
会議室に沈黙が落ちた。誰も異を唱えなかった。むしろ、局員たちの表情には、ようやく「対処すべき問題」に向き合えたという安堵すら滲んでいた。
六月三十日。魔軌士局は正式に、アレン・ヴァルグレイを監視対象とする議題を可決した。それは、黒鋼派が望んだ通りの展開だった。ダルケンが投じた三本の毒矢は、それぞれが着実に的を射抜いていた。
アレンは何もしていない。ただ、公女王を守り、自らの力を必要な時に振るっただけだ。だが、その圧倒的な力が、既存のルールを守ろうとする者たちの内なる恐怖を呼び覚まし、包囲網という形の実体を持って彼を取り囲みつつあった。
世界を救うべき「理外」の力は、今や世界中から忌むべき「異端」として、その首に目に見えぬ鎖を掛けられようとしていた。国境を越えるたびに膨らんでいく恐怖の言葉は、もはや誰にも止められない奔流となって、ガルディアの英雄を静かに、しかし確実に包囲していく。ガルディア国内の温かな信頼と、国外に広がる冷たい拒絶――その二つの相反する感情の狭間で、アレン・ヴァルグレイという存在は、世界にとって説明のつかない「未知数」として扱われ始めていた。




