17-9
滞在五日目。バルムート王国の国際空港。
ガルディア公国の特別機が、滑走路で重厚なエンジンの唸りを上げていた。 四日間に及んだ「世界十五か国首脳会議」は、閉幕直前の暗殺未遂という最悪の爪痕を残し、不穏な静寂の中で幕を閉じた。
「……エリシア様、お疲れではありませんか」
機内の特別室。セリスが、窓の外を流れる雲海を虚ろに見つめるエリシアへ、静かに声をかけた。
「……ええ。体は何ともありませんわ。ですが、少し……疲れましたわね」
エリシアは力なく微笑んだ。その青い瞳には、毒殺の危機を切り抜けた安堵よりも、大陸に広がる不透明な未来への深い疲弊が滲んでいた。 物理的な傷こそないが、信じていた「和平の誓い」が、得体の知れない悪意によって根底から踏みにじられた精神的負荷は計り知れなかった。
セリスはエリシアの傍らを離れ、通路に不動の姿勢で立つアレンの元へ歩み寄った。 彼女の手は、腰に下げたレイピアの柄を、指の関節が白くなるほど強く握りしめている。
「アレン様。……私は、自分の不甲斐なさが許せません」
セリスが顔を上げると、そこには父親譲りの琥珀色の瞳が、燃え上がるような意志を宿して輝いていた。
「エルンストの時も、今回も……。私はただ、守られる側でしかなかった」
彼女の脳裏には、数ヶ月前に家族同然の存在を失った悲しみと、昨夜、目の前で毒のグラスを弾き飛ばしたアレンの背中が焼き付いている。
「次は、絶対に逃しませんわ。この命に代えても、女王陛下を、そして……我がガルディアを汚す影を、私が切り裂いてみせます」
震えながらも退くことのないその声は、「誓導者」としての、そして「ヴァレンティア家」の誇りに満ちていた。
「……アレン様」
銀髪を揺らしたリィナが、アレンの隣に寄り添い、そっと彼の袖を引いた。 彼女の《思考読解》は、アレンの表面上の冷静さの裏側にある「極低温の揺らぎ」を敏感に察知していた。
「魔力が、少し……冷たくなっています。何か、不穏なものを見ているのですか?」
アレンは無言でリィナの頭に手を置いた。 彼の《魔力直接操作》が捉えているのは、王宮から空港のタラップに至るまで、執拗に纏わりついてくる「黒鋼色の魔力」の残滓だ。
「……リィナ、セリス。奴らはこれで終わりじゃない」
アレンの声は、成層圏の空気よりも冷徹だった。
「陛下を狙ったのは、あくまで小手調べだ。本命の『毒』は、もっと深い場所に隠されている」
特別機が高度を上げ、バルムートの地が遠ざかっていく。
その地上では、世界はすでに「帝国の影」に対する疑心暗鬼の泥沼に呑み込まれ始めていた。 給仕の不自然な転落死、消えた毒の証拠。 各国の首脳たちは、アーク・リンクの秘匿回線で軍備の増強を急ぎ、平和のための会議は、皮肉にも世界を軍拡競争へと突き落とした。
同じ頃。東大陸、ヴァルゼン帝国軍務院。
光の届かぬ地下深部、黒鋼派の会議室で、ダルケン・シュタールが冷たく口角を上げた。 壁一面に貼られた資料。そこにあるのはエリシア公女王の肖像ではない。
迷宮深層で守護獣を屠り、毒を事象ごと修正した「理外の男」 ── アレン・ヴァルグレイの全解析データだった。
「公女王の暗殺失敗など、些末な問題だ」
ダルケンの冷徹な声が室内に響く。
「帝国の覇道を阻む真の障壁は、あの『異物』。奴を排除せぬ限り、我らが望む真の秩序は完成せぬ」
黒鋼派の本当の標的は、もはや国家ですらなかった。
世界の理を壊し続けるアレンという存在を、この世界から完全に消し去ること。
次なる戦場は、外交の場ではない。
魔術と鉄、そして命を賭した、本物の「戦争」が始まろうとしていた。




