17-8
晩餐会会場の華やかな喧騒を背に、一人の若い給仕スタッフが王宮の裏廊下を無我夢中で駆けていた。 彼の心臓は、逃走の恐怖と極限の緊張によって耳元でうるさいほどの鼓動を刻んでいる。
「──はぁ、はぁ、……逃げないと、早く……」
彼はヴァルゼン帝国の訓練を受けた暗殺者ではない。 帝国の影に家族を人質に取られ、公女王のグラスへ「毒」を盛るよう命じられただけの、使い捨ての駒に過ぎなかった。 アレン・ヴァルグレイという「理外の男」によって計画が根源から無効化された今、彼に残された道は、事前に指示されていた合流地点へ辿り着くことだけだった。
王宮の最上層に近い、人影のない石造りのバルコニー。 突き刺すような夜風が吹き抜けるその場所に、外套を纏い闇に溶け込んでいた一人の男が佇んでいた。 給仕は救いを見つけたかのように、縋るような声を上げた。
「やった……やったぞ! 指示通りにグラスを置いた! あとはアレンが勝手に暴れただけだ! だから、家族を……私の家族を助けてくれ……!」
暗がりに佇んでいた男が、ゆっくりと顔を上げた。 ヴァルゼン帝国の制式軍服ではない。だが、その瞳には感情を完全に削ぎ落とした「軍の殺意」が、氷のように冷たく宿っていた。 帝国軍務院の地下深部 ── 黒鋼一席ダルケンが放った「掃除人」だった。
「……家族か。案ずるな、すぐに行かせてやる。同じ場所へな」
「えっ──」
掃除人の指先が、流れるような予備動作なしに虚空をなぞった。 構築されたのは、極限まで魔力を絞り込み、発動音すら殺した洗練された術式。
──《真空刃》。
断末魔の叫びすら上がることはなかった。 給仕の体は操り人形の糸が切れたように崩れ、そのまま石造りの手すりを超えて、夜の闇へと吸い込まれていった。 数秒後、遥か階下から鈍い衝撃音が響く。
「処理完了。──『事故死』だ」
掃除人は冷淡に呟くと、懐のアーク・リンクへ短く報告を入れた。 そこには、計画失敗に対する憤りも、一人の人間を殺めた罪悪感も微塵もなかった。
同時刻。晩餐会会場の特別室。
ヴァルゼン帝国の皇帝ダリオスは、手元のグラスに満たされた深紅のワインを見つめたまま、微動だにしていなかった。 その傍らでは、帝国軍No.1ヴァルツ・レグナスが岩のような威圧感を湛えて控えている。
「……報告は以上です、陛下。先ほどの給仕は、バルコニーからの転落死として処理されました」
ヴァルツが周囲に悟られぬ低い声で告げる。 現場から毒の証拠が一切見つからなかったこと。 そして、給仕が「偶然の事故」で命を落としたこと。
「……そうか」
ダリオスの応じた声には、何の感情の機微も存在しなかった。
覇王の黒瞳は、先ほど大広間の床に広がっていたあのワインの染みを ── アレンの《魔術消去》によって毒の術式も痕跡も完全に抹消され、ただの無害な液体と化したあの光景を、脳裏で冷徹に反芻していた。
彼は気づいている。 自身の預かり知らぬ場所で、軍務院の「毒蛇」どもが独断で牙を剥いたことを。
だが、この場でその内実を暴くことは、帝国の脆弱さと統制の乱れを世界に晒すことに他ならない。
「アレン・ヴァルグレイ……。貴様が消したのは、毒の成分だけではなかったということか」
沈黙。それこそが、覇王が選んだ冷徹な現実主義だった。 ダリオスは自身の足元で蠢く黒鋼派という「不協和音」を認識しながらも、それを帝国の尊厳という名の分厚い仮面の下へと押し隠した。
晩餐会の会場には、表面上の平穏が戻りつつあった。 しかし、その空気は一時間前とは根本的に異なっている。
各国の首脳たちは、互いに杯を掲げながらも、その瞳の奥で鋭い不信の火花を散らしていた。 午前中に結ばれた「共同声明」という平和の誓いは、もはや熱を失い、薄氷よりも脆い空文へと変わり果てていた。
アレンは公女王の背後で、腰のショートソードに手を置いたまま、会場全体を圧するような魔力圧を放ち続けていた。 隣に立つセリスの顔は、かつての裏切りを思い出したかのように硬い。
「……アレン様。ネズミは消えたようですわね。……ですが、この嫌な空気は消えませんわ」
「ああ。毒は消した。だが、残ったのは泥沼の疑心暗鬼だ。……これは、俺にも消せそうにないな」
世界十五か国首脳会議、最終日の夜。
偽りの和平が終焉を迎え、エルディア大陸を飲み込む巨大な殺意と疑念が、目に見えぬ暗雲となって全土へ広がり始めていた。




