17-7
バルムート王宮の大広間。四日間にわたる熾烈な外交戦の幕引きを祝う晩餐会は、今まさに最高潮を迎えていた。 幾千のクリスタルが煌めくシャンデリアの下、十五か国の首脳たちが円卓を囲み、最高級のヴィンテージワインが注がれたグラスを手に取る。
「──皆様。この和平の合意が、次なる千年を照らす光とならんことを。……乾杯」
議長であるバルムート国王アレクシオンの朗々とした唱和に合わせ、公女王エリシアが静かにグラスを口元へと運ぶ。 彼女の青い瞳には、重責を果たしたことへの微かな安堵が浮かんでいた。
その刹那。
エリシアの斜め後ろに控えていたセリスの琥珀色の瞳が、不自然な一点を射抜いた。
視線の先にいるのは、先ほどエリシアへ給仕を行った若いスタッフだ。 男は壁際に下がりながら、トレイを握りしめた指先を小刻みに震わせていた。 その額には季節外れの脂汗が浮かび、視線は幽霊でも見るかのように彷徨っている。
(……なにかが、おかしいわ)
セリスの脳裏に、数ヶ月前の冷たい月夜の光景が鮮烈にフラッシュバックした。 かつての家族であり、宮殿爆破という凶行に走った侍従、エルンスト・ハルデン。 彼が絶望と狂気の狭間で、自分を「救い出そう」と嘯いた時に見せた、あの救いようのない「澱んだ表情」。
今の給仕の目には、あの時のエルンストと全く同じ、物理的な重みを伴った「破滅の気配」が宿っていた。
「エリシア様、待ってください!!」
セリスの絶叫が大広間に響き渡る。
エリシアがグラスを唇に触れさせようとした、その瞬間。
アレンが一九二センチの巨躯を、物理法則を置き去りにした爆発的な踏み込みで加速させた。 彼の《魔力直接操作》は、給仕の精神的な不協和音と、セリスの研ぎ澄まされた直感に完璧に同調していた。
「──触れるな」
アレンの手がエリシアの指先からグラスを弾き飛ばした。
宙に舞うクリスタルグラス。 その中に満たされた琥珀色の液体へ、アレンは無造作に《魔術消去》の干渉波を叩き込んだ。
「パキィィィィィィィィン!」
ガラスが砕けるような硬質な音が響く。
それは魔術を消し去る音だ。
この液体の中に潜んでいたのは、帝国軍務院の地下でレグナスが開発した「無属性隠蔽式・毒素魔術」。 現代魔術の鑑定術が探知する魔力波長の揺らぎを、逆位相の魔力で完全に打ち消したその毒は、あらゆる魔導器や魔術師の眼には「ただのワイン」としか映らないはずのものだった。
だが、アレンの「理外」の知覚は、視覚的な情報ではなく、事象の連鎖に紛れ込んだ不自然な「数式の歪み」としてその毒を捉えていた。
アレンが《魔術消去》を叩き込んだ瞬間、ワインの中に精密に編み込まれていた「鑑定をすり抜ける毒の術式」だけが根源から破壊され、光の粒子となって霧散した。
空中で「死の因果(式)」を剥ぎ取られた液体は、床にぶちまけられた時には、文字通りただの無害なワインへと戻っていた。
「リィナ!」
「はいっ、《高純度浄化》!」
即座に踏み出したリィナが、エリシアを包み込むように淡い青色の光を浴びせた。 万が一、グラスの縁に毒素が触れていたとしても、彼女の世界最高純度の浄化魔力は、あらゆる不純物を分子レベルで分解し、消し去っていく。
「な、何事だッ!?」「ガルディアの護衛が暴挙を!」
静まり返っていた会場は、次の瞬間に凄まじい騒然に包まれた。 各国首脳の背後で、No.1ヴァルツやNo.6セラフィナといった特級魔軌士たちが、一斉に武器の柄に手をかけ、物理的な衝撃を伴う魔力圧を解放する。
「……説明してもらおうか、アレン・ヴァルグレイ」
ヴァルゼン帝国の皇帝ダリオスが、冷徹な視線でアレンを射抜いた。 その背後では、ヴァルツが巨剣を僅かに引き抜き、周囲の空気を歪ませている。
「……毒だ。この給仕が運んだものに、鑑定をすり抜けるよう設計された、不浄な数式が混ざっていた」
アレンは壁際を指差したが、そこにはもう、震える男の姿はなかった。 混乱に乗じ、給仕スタッフは会場の影へと逃走していたのである。
「アレン・ヴァルグレイ、貴様の無礼も大概にしろ! 我が国の警備を疑うというのか!」
バルムート王国の担当官が、屈辱に顔を赤くして叫ぶ。 隣では帝国の外交官が、好機とばかりに冷笑を浮かべていた。 だが、ダリオス皇帝は無表情のまま、床に広がるワインの染みを凝視していた。
証拠は、アレンの《魔術消去》によって、魔術式ごと完全に抹消されている。 いかなる高度な解析術式を以てしても、そこに毒が介在した痕跡を見つけ出すことは、もはや不可能だった。
「帝国がこのような卑劣な真似をする理由はない。……我が軍に、そのような毒を扱う部署など存在せぬ」
ダリオスの言葉は、彼自身の認識としては真実だった。 皇帝ですら、自身の足元で「黒鋼派」という毒蛇が、現代魔術の裏をかく術式を独断で実戦投入したことを、この時はまだ把握できていなかったのである。
「……セリス。よくやった」
アレンが短く告げると、セリスは震える肩を抱き、唇を噛んで静かに頷いた。
かつてエルンストを「守れなかった」という後悔。 それを乗り越え、主と女王を救うための鋭い直感へと変えた彼女の瞳には、哀しみと、それを上回る強い意志の火が灯っていた。
世界十五か国首脳会議、最終日の夜。
美しく着飾られた円卓の裏側で、平和という名の合意は、目に見えぬ「数式の刃」によって、血の色の混じった深い疑心暗鬼へと塗り替えられていった。




