16-10
中庭を支配していた狂気と怒号は、エルンストの意識消失と共に、凍てつくような沈黙へと塗り替えられた。
駆けつけた宮廷近衛兵たちが、昏倒したエルンストを無機質な手つきで拘束し、引きずり出していく。 重厚な甲冑が石畳を擦る「ガリガリ」という不快な金属音だけが、夜の空気に虚しく響いていた。
アレンは動かなかった。 漆黒の瞳は、連行される犯人の背中ではなく、傍らで立ち尽くす第二誓導者の姿を静かに捉えていた。
セリスの手に握られたレイピアが、カチカチと微かな音を立てて震えている。 彼女の周囲に漂う魔力波長は、もはや制御を失い、深い絶望と自己嫌悪を示す澱んだ灰色へと変色していた。
「……うそ。嘘ですわ……」
掠れた声が、白く凍る息と共に零れ落ちる。
「彼は……エルンストは、私の……家族のような人でしたのに……」
膝の力が抜けたように、セリスが冷たい石畳の上に崩れ落ちた。 紺銀の戦闘服が汚れ、誇り高き辺境伯令嬢の顔から、生気という色彩が完全に失われていく。 彼女にとって、エルンストは単なる使用人ではなかった。 魔術の研鑽に明け暮れ、孤独な努力を続けていた幼少期から、常に自分の背中を見守り、寄り添ってくれていた唯一の「居場所」を共有する存在だったのだ。
アレンは数歩近づき、彼女の肩に手を置こうとしたが、その指先は虚空で止まった。
今の彼女を蝕んでいるのは、魔術的な干渉ではない。 感情という名の、論理を超えた暴走だ。 彼の《魔術消去》では、この心の亀裂を消し去ることはできない。
「……セリス」
「私の……せいですわ……。私が、家を捨て……アレン様の誓導者になる道を選んだからですわ……」
床を見つめたまま、セリスは自分を切り刻むような呪詛を紡ぎ始めた。
彼女の明晰な頭脳は、今やエルンストの凶行と自分の選択を結びつける「誤った因果関係」を瞬時に構築していた。 自分が彼を置いて宮殿へ来たから、彼の心に穴が空いた。 自分が戦場という死地へ身を投じたから、彼は「国を強靭にせねばならない」という狂気に取り憑かれたのだと。
「セリス、それは違う。あいつの勝手な思い込みだ。お前が責任を感じる道理はない」
アレンが静かに、しかし冷徹な事実として告げた。 彼の合理的な思考は、個人の暴走を他人の選択のせいにするエルンストの理屈を「不自然な数式」として切り捨てていた。
だが、その正論は今のセリスには届かない。 セリスはただ首を振るだけで、アレンの視線を拒むように顔を覆った。 責任感が強く、他者の痛みを自分のこととして抱え込む彼女の優しさが、今は自分を殺す刃となって魂を抉り続けていた。
「……セリス」
アレンの背後から、リィナがそっと歩み寄った。
彼女はアレンとは対照的に、何も言わずにセリスを背後から包み込むように抱きしめた。 リィナの周囲を包む光属性の魔力が、安堵の燐光となってセリスの冷え切った身体を優しく温める。
「セリス……大丈夫、大丈夫ですから……」
リィナ自身、孤独だった過去に「居場所」を失う恐怖を知っている。 だからこそ、彼女には分かっていた。 今のセリスに必要なのは正しい答えではなく、この夜の闇の中で一人ではないという温もりなのだということを。
しばらくして、別邸のリビングに戻った三人の元に、ガルディア情報局による速報が届いた。
現場に残された「濁った魔力痕跡」の鑑定結果、不細工な術式で自壊しかけていた爆薬の構造、そして ── 地下の尋問室で始まったエルンストの自白。
「……黒幕の存在は確認できませんでした。容疑者は『すべて自分の意思だ、誰にも唆されていない』と一点張りの供述を繰り返しています」
スピーカーから漏れる情報局員の声は、冷徹なまでに「単独犯」という結論を補強していた。
実際、そこにはヴァルゼン帝国「黒鋼派」の影は微塵も残されていない。 彼らはただ、エルンストの心にあった孤独という枯れ木に、一滴の火種を落としただけに過ぎないからだ。
「黒幕は不在、か」
アレンはソファに深く身体を預け、手元のアーク・リンクのディスプレイを消した。
ガルディア公国という国家も、理外の力を持つ自分ですら、エルンストの心という「ブラックボックス」の中で何が行われたのか、その真実には到達できない。 事件は、かつて誠実だった一人の男の暴走という、救いのない結末をもって幕を閉じた。
隣では、リィナに支えられながらセリスが静かに嗚咽を漏らしている。
窓の外、夜明け前のガルディアスの空には、不気味に静まり返った街並みが広がっていた。
平穏という理が、見えざる影によって確実に蝕まれ始めていることを、三人はまだ知る由もなかった。




