16-2
ガルディア公国、宮殿別邸。
午後の柔らかな陽光が、高い天井から吊るされた魔導シャンデリアに反射し、磨き抜かれたリビングの床に複雑な光の幾何学模様を描き出していた。最新の魔導空調が、外の寒さを忘れさせる春のような暖かさを一定に保ち、室内には微かな機械の駆動音だけが静かに響いている。
リィナはソファの端に座り、膝の上で青白く発光するアーク・リンクのディスプレイを所在なげに操作していた。その指先は、特定のログを表示させたまま何度も止まり、逡巡するように揺れている。
「あの……アレン様。少し、ご相談したいことがありまして」
アレンは対面のソファに深く腰掛け、漆黒の瞳をリィナに向けた。 彼女の周囲に漂う魔力波長が、困惑と申し訳なさが入り混じった淡い色に揺れているのを、彼は敏感に感じ取った。
「アルヴェリア王国にある、私のアパートのことなのですが。……戦争や遠征でバタバタしていて、解約の手続きを忘れていたんです。自動更新で一年延びてしまっていて」
「アパート? ああ、以前住んでいた場所か」
アレンは手元のアーク・リンクに視線を落としたまま、事務的に答えた。 彼の「理」に基づいた思考回路は、この問題を純粋なコストと効率の天秤にかけていた。
「リィナの好きなようにすればいい。残したいなら更新すればいいし、不要なら解約すればいい。荷物が必要なら、俺の転移で取りに行けば済む話だろ。どうせ今は、俺と一緒に住んでいるんだし、今のところあそこに拠点は必要ないはずだ」
アレンとしては、リィナへの信頼ゆえの「自由な裁量」を与えたつもりだった。 だが──。
「アレン様!!」
唐突に響いた鋭い声に、アレンは僅かに肩を揺らした。
立ち上がったセリスの青い瞳が、烈火のような怒りを宿して彼を射抜いている。 隣でリィナが、弾かれたように顔を真っ赤にして俯いた。
「……“どうせ一緒に住んでいる”とおっしゃいましたわね。それは『誓導者』としての話ですわ!」
セリスは一歩詰め寄り、令嬢としての気品を保ちつつも、峻烈な口調で畳み掛けた。
アレンは沈黙した。 彼女の魔力波長が、単なる怒りではなく、リィナの尊厳を軽んじられたことに対する強い拒絶反応として放射されている。彼は思考を止めて観察し、自らの言葉のどこに「理の欠落」があったのかを分析し始めた。
「いいですか、アレン様。誓導者がマスターと寝食を共にするのは、魔力循環を最大化させるための、いわば業務上の必然ですわ。……でも、リィナは『誓導者』としてではなく、『リィナ自身』としてアレン様に相談したかったのですわ!」
「……リィナ自身として、か」
アレンが呟くように繰り返すと、リィナが消え入りそうな声で胸中を吐露した。
「……はい。誓導者としては、アレン様のそばに居るのが当然です。でも、アルヴェリアのアパートは……私が両親を亡くして、一人で頑張って生きていた頃の、大切な『居場所』だったんです。だから……」
彼女の淡い青色の瞳が、窓の外の遠い空を見つめて潤んでいく。
アレンは数秒の沈黙の後、小さく息を吐いた。
理外の力を持つ自分にとって、不動産契約などは紙切れ一枚の因果に過ぎない。 だが、彼女にとってそれは、アレンという「光」に出会う前の、孤独で過酷な日々を支え続けた唯一の聖域だったのだ。 効率や合理性で測れるものではなかった。
「……なるほど。俺が浅はかだった」
アレンはソファから立ち上がると、見上げるほどの巨躯を折るようにしてリィナの隣に歩み寄った。 そして、細い肩にそっと掌を置いた。
「じゃあ、一緒に行こう。必要な物を整理して、あそこをどうするかは、その時に一緒に決めればいい」
「……っ、はい……!」
リィナの表情が、凍てついた冬に春の陽光が差したように、一瞬で明るくなった。 彼女の周囲を包む光属性の魔力が、安堵の温かな燐光となってリビングを優しく照らす。
「最初からそう言えばいいんですのよ!」
腰に手を当て、セリスが勝ち誇ったように言い放った。 その表情には、いつもの冷徹な令嬢の仮面はなく、友人を見守る満足感が滲んでいた。
「いや……本当に分からんかった……」
アレンは頭を掻き、苦笑いするしかなかった。
最強の魔軌士として世界を動かす力を持ちながらも、女性の心の機微という「理」の前では、彼はまだ一人の未熟な若者に過ぎない。
翌日。三人は西の大陸を離れ、航空機でアルヴェリア王国へと向かった。
目指すは世界樹国際空港。 アレンが召喚され、リィナと運命の共鳴を果たした、始まりの地である。




