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女神歴二一九七年一月二十八日。
アレンたちが二十六階層の「精神の檻」を看破し、絶望の淵から探索者たちを引きずり戻していたその頃、同じ迷宮『幻砂冥廊』の低層階には、別の「特級」の気配が漂っていた。
「……はぁ。やっぱり砂埃は肌に悪いですわね。迷宮なんて大嫌い」
サハリス砂漠王国の「至宝」と称される特級魔軌士No.6、セラフィナ・アルシェルは、透けるような薄布を纏った華やかな魔術礼装の裾を気にしながら、深く重い溜息を吐き出した。 迷宮特有の、喉を焼くような乾燥した大気が彼女の端麗な顔を撫で、自慢の肌を苛んでいる。 彼女にとって、迷宮探索は崇高な使命というよりは、美容と精神を著しく摩耗させる「避けたい労働」に他ならなかった。
「お嬢、足元に気を付けてください。砂に足を取られて転ばれては、侯爵家の名に傷がつきます」
背後から声をかけたのは、騎士然とした屈強な体躯を持つ誓導者、カイゼル・ロンドである。 彼は主であるセラフィナの愚痴をいつものことと聞き流し、前方に現れた砂の魔獣を魔力強化された大剣で一刀両断にした。
「……カイゼル。その『お嬢』っていうの、今日は癪に障るわ」
セラフィナは眉をひそめて振り返った。 アルシェル侯爵家の令嬢として、そして特級魔軌士として、彼女は既に二十七歳という成熟した年齢に達している。 「お嬢」と呼ばれるには、自分でも限界に近い自覚があるのだろう。
「お姉さま。あのアレン様のことが気になっているのでしょう? だから、いつもより少しだけ余裕がないんですわ」
もう一人の誓導者、エルミア・ノルヴァが小悪魔的な笑みを浮かべ、セラフィナの隣に並んだ。 彼女は主の動揺を愉しむように、甘い声で囁きを続ける。
「早くアタックしないと、あの銀髪と金髪の可愛らしい二人組に、先を越されちゃいますよ」
「……そうね、どうしようかしら。って、そんなこと気にしなくて良いのよ! 早く目の前の魔獣を倒しなさい!」
セラフィナは頬を微かに染め、焦ったように声を荒らげた。 しかし、その視線は既に戦場の向こう側、この迷宮のさらに深層へと消えていった「理外の男」の残像を追っている。
(私、彼より結構年上だし……。それに、あのアレン様の誓導者の二人、一分の隙もなさそうなのよね)
自身の魔力回路を整えながら、セラフィナは思考の海に沈む。 知的好奇心と、女性としての羨望。 その入り混じった熱を悟られぬよう、彼女は再び冷静な「魔術師」の顔を取り繕った。
一月三十日。
遅々(ちち)として進まぬ攻略に不満を漏らし続けながらも、一行は二十一階層の前線キャンプへと辿り着いた。 そこで彼女たちを待っていたのは、キャンプ全体を包み込むような、異様な興奮と安堵の熱気であった。
「報告します。二日前に、行方不明者十六名の確保に成功したとのことです」
カイゼルの言葉に、セラフィナの黒い瞳が鋭く光った。
「確保? どこで?」
「二十六階層の特定地点です。迷宮による精神汚染で洗脳され、夢遊病者のように集められていたところを……第十一位が救出したと」
「二十六階層!? そんな未攻略階層に生きて辿り着いていたというの?」
エルミアが驚愕の声を上げた。 通常、未攻略域への到達は数週間の慎重な行軍を要する。 それを、この短期間で成し遂げ、あまつさえ重荷となる十六名の生存者を連れて帰還するなど、現代魔導工学の常識では計り知れない。
「迷宮の精神汚染に洗脳……。アーラム機関の術式にも通じる現象ね」
セラフィナの指先が、無意識に自らの魔導具をなぞる。 彼女の中に眠る天才魔術師としての知的好奇心が、静かに鎌首をもたげた。
「魔獣を反応させずにこれだけの人数を誘導するなんて、今の魔導工学の理論外だわ。……素晴らしい研究材料ね。そんなことが可能なら、迷宮なんてお散歩コースですもの」
ひとしきり理論を口にした後、彼女はふと思い出したように、キャンプの奥へと視線を巡らせた。
「……それで、彼はどこにいるの?」
「……。既にさらに深い階層へ向けて出発したそうです」
カイゼルの無機質な報告に、セラフィナの動きが止まった。
「がーーーーん。……もう、い・け・ず!」
セラフィナは子供のように肩を落として項垂れた。 特級第六位としての威厳はどこへやら、あまりにも無慈悲なすれ違いに、彼女の精神的摩耗はピークに達しようとしていた。
「お姉さま……。おかわいそうに」
エルミアの憐れみの視線が、主の背中に突き刺さる。
セラフィナは一瞬だけ、全てを放り出して今すぐアレンを追いかけようかという誘惑に駆られた。 だが、彼女はサハリスの誇り高き魔術師であり、名門侯爵家の令嬢でもある。
「……仕方ないわね。救助された探索者たちを地上まで送り届けるのが先よ。それもお国の使命だわ」
結局、彼女は深層への未練を断ち切り、支局員や生存者たちと共に迷宮を出る道を選んだ。
(アレン・ヴァルグレイ……。次こそは、じっくりとその魔力を解剖してあげるんだから)
砂塵舞う迷宮の入り口を後にする彼女の瞳には、執念深い情熱が静かに、しかし鮮やかに燃え続けていた。




