3-1
魔力循環誓約という、魂の最深部を繋ぎ合わせる儀式を終えた翌朝。
アレンは、窓の隙間から差し込む二つの月の残光と、入れ替わるように差し込み始めた柔らかな朝陽の中で目を覚ました。
(……静かだ。昨日までとは、何かが決定的に違う)
身体をゆっくりと起こしながら、アレンは己の内に意識を向けた。
覚醒以来、制御不能な溶岩のように血管を焼き、荒れ狂っていた膨大な魔力の奔流。それが今は、リィナという完璧な「受け皿」へと流れ込み、凪いだ水面のように安定していた。
意識を研ぎ澄ませれば、壁を隔てたキッチンで朝食の準備をする彼女の気配が、手に取るように分かる。
それは視覚的な情報ではない。彼女の体温、規則正しい鼓動、そして「アレンを気遣う」という微かな心の揺れさえも、薄い膜を通した残響のようにアレンの魂へと流れ込んできた。
リィナ側の変化は、より劇的で、目に見えるほどの輝きを放っていた。
リビングへと姿を現した彼女は、アレンから供給される絶大な魔力の余波を受け、全身から淡い光の粒子を雪のように零している。彼女の魔力量は、昨日の時点から約倍にまで膨れ上がっていた。
銀髪を揺らして皿を並べる彼女の所作は、以前の自信のなさげなものから、一人の「誓導者」としての凛とした確信に満ちたものへと変わっている。
「アレン様、おはようございます。……魔力の流れ、とても綺麗に整っていますね」
リィナの声は鈴を転がしたように澄み、二人の距離は、結ばれた魔力の糸に導かれるように自然と縮まっていた。
食卓を囲みながら、リィナはふと思案するように、アレンの黒い瞳をまっすぐに見つめた。
「アレン様。あなたがこの世界の文字を読めないのに、なぜか会話だけは成立している理由……それはおそらく、セラフィナ様の古代魔術による『言語翻訳』の術式です。アレン様の言葉に少し古い訛りがあるのは、それが数百年前の言語体系だからだと思います」
ハーフエルフとしての高い魔力純度と、誓約によるリンク。
それが、リィナに世界の真実の一端を悟らせていた。
「この魔術は、私には解けません。……おそらく、誰にも」
彼女はアーク・リンクを取り出すと、苦笑を浮かべるアレンに画面を提示した。
そこに映し出されていたのは、色鮮やかなイラストが踊る――幼児向けの「文字学習アプリ」だった。
「まずは共通語の読み書きを覚えましょう。……これ、覚えるのには丁度いいんです」
青年が、幼子のように画面上の幾何学模様をなぞる姿は滑稽ですらあったが、アレンに拒む理由はなかった。このエルディアという世界で、彼女の隣に立ち続けるためには、赤子として学び直すことさえも必要な代償だった。
朝食を終え、リィナは真剣な表情で今後の指針を語った。
目指すは、四大迷宮の一つ、蒼風峡谷。
その攻略拠点となるのは、このエルフ特別自治区から空路で三時間、西方に位置する王国の心臓部――首都アルヴェンである。
「本格的な探索をするなら、王都へ移住する必要があります。……私の貯金、二人分の航空券を買えばほぼ底を突いちゃいますけど、迷宮に潜れば、きっと道は開けますから」
リィナが震える指先で財布を握りしめる様子を見て、アレンは静かに頷いた。
二人は最小限の荷物をまとめ、世界樹国際空港へと向かった。
エルフ特別自治区の外縁に位置するその空港は、巨大な魔力結界に守られた、大理石とガラスの建築美が光る空間だった。
背後に天を圧する世界樹の黄金の根を背負いながら、滑走路には流線型の滑らかな航空機が並んでいる。その機体は、アレンの故国の記憶にある「未来都市」の情景そのものだった。
搭乗待ちの時間、リィナはアレンのアーク・リンクを借りて、国際行政機関である「魔軌士局」の公式ページへとアクセスした。
「登録状況を確認しますね。……アレン・ヴァルグレイ。階級は……『魔軌補』、ですね」
「補……? 補欠、か?」
「ふふ、一番下の階級です。一階層から十階層を主戦場とする見習い、という意味ですよ」
リィナは楽しそうに微笑むと、自身の情報をアレンの個人ページへと入力していく。
魔力循環誓約の正式な署名。
登録ボタンが押された瞬間、端末から清らかな認証音が響き、アレンの網膜に黄金の魔法陣が浮かび上がった。
「……はい。これでアレン様は、正式に私のマスター(誓約主)です」
「……よせよ、照れるだろ」
アレンは視線を逸らしたが、胸の奥には、自分をこのエルディアという不確かな世界に繋ぎ止める、重厚で確かな「鎖」の重みが宿っていた。
搭乗した最安便の航空機は、物理的な爆音もなく、驚くほど静かに離陸した。
窓の外には、アルヴェリア王国の圧倒的な国土を象徴する、深緑の大森林と血管のように脈動する大河が広がっていく。
約三時間の飛行を経て、地平線を鉄と石、そして極彩色の魔導広告で塗りつぶす巨大な都市の輪郭が見えてきた。
「……アルヴェンが見えてきました。人口六億を抱える、この大陸最大の迷宮都市です」
空港に降り立つと、そこは人々の喧騒と、魔石発電所から供給される膨大な電力による光の洪水だった。
巨大な武器を背負った魔軌士たちが、信号機のない洗練された街路を縦横無尽に行き交っている。
そして、都市のすぐ傍らには、雲を突き抜けるような巨大な断崖――迷宮『蒼風峡谷』の入口が、深淵の如き口を広げて待ち構えていた。
アレンはリィナの隣に立ち、アーク・リンクを強く握りしめた。
魔軌補からのスタート。
この欲望と活気が渦巻く巨大な坩堝で、アレンとリィナの「理外の物語」が、今、重厚な音を立てて動き始めようとしていた。




