2-7
夜の静寂が、アパートの室内を重厚な沈黙で満たしていた。
窓の外では、天を衝く世界樹が呼吸に合わせるように淡く青白い燐光を放ち、その神話的な輝きがカーテンの隙間から差し込んで、二人の影を畳の上に長く落としている。
テーブルを挟んで向き合うアレンとリィナの間には、淹れたての茶から立ち昇る、微かな湯気だけが揺れていた。リィナは俯き、膝の上で細い指先を固く握り締めている。
「アレン様……。隠していたことが、あります」
リィナが意を決したように顔を上げた。その淡い青色の瞳には、一歩も引かない決意と、それ以上の申し訳なさが同居していた。
「私には……『思考読解』の能力があるんです。魔術ではなく、生まれ持った……特異体質のようなものですが。……今まで黙っていて、すみませんでした」
「……思考、読解?」
アレンの思考が一瞬、白く停止した。
思考を読まれる。それは、心の奥底にある無防備な本音を、すべて白日の下に晒されることを意味する。
(……じゃあ、さっきの風呂のこととか……リィナを『可愛い』とか思ってたことも……全部……?)
「……はい。今日も……その、少しだけ、読んでいました」
リィナは林檎のように頬を朱に染め、恥ずかしそうに視線を逸らした。だが、彼女はすぐに、花が綻ぶような、慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。
「でも……嫌では、ありません。……むしろ、嬉しかったです。あなたが、そう思ってくださって」
アレンの身体が、かつてないほど小さく縮こまった。アレンの顔は見る間に沸騰したように紅潮し、視線のやり場に困って、冷めかけた茶を一気に煽った。心臓の鼓動が耳の奥で爆音を立て、覚醒した魔力回路が、彼の動揺に呼応するように激しく明滅する。
リィナはそんなアレンの様子を慈しむように見つめた後、表情を引き締め、本題を切り出した。
「……『魔力循環誓約』について、お話しします」
彼女の声から甘やかさが消え、一人の「魔軌士」としての、重厚な響きが宿る。リィナは、現代魔術における最高位の儀式について説明を始めた。それは、マスターと誓導者の「魔力回路」を直接繋ぎ、一つの大きな循環系を作る、魂の不可逆な契約だった。
「一度繋がると、双方が同時に解除を望まない限り、生涯解けることはありません。……片方が望んでも、もう片方の魔力が、その繋がりを本能的に維持しようとするのです。文字通り、命と魂を共有することになります」
「リィナ。なぜ、そこまでして……」
アレンの問いに、リィナは自身の胸に手を当て、確固たる魔術的根拠を提示した。
「今の私だけの魔力量では、迷宮でアレン様と私の両方に展開する計六つの《三重魔導護膜》を、二十四時間維持し続けることは不可能です。……私には、アレン様のあの膨大な魔力が必要なんです。誓約を結べば、私はあなたの魔力の一部を『受け皿』として、世界最高峰の防御を完成させることができます」
リィナの声は微かに震えていたが、その瞳は、パートナーを守り抜くという一点の曇りもない覚悟で澄み渡っていた。
「誓約は、魔力回路を『共有可能な状態』にする儀式です。……魔力循環が安定すれば、アレン様のまだ暴走しがちな力も、私が整えることができます。……ですが、この誓約には、大きな代償があります」
リィナは視線を僅かに落とし、唇を噛み締めながら、最後に最も重い一言を口にした。
「……魔力循環誓約は、この世界では婚姻と同格……あるいは、それ以上の社会的重みがあります。……そして、誓約を継続している間、魔力が生命の型を固定するため……子供を作ることが、できなくなります」
アレンは息を呑んだ。
魔力回路を他者と共有し、戦場に最適化させるための代償。十七歳の彼女が、自分の将来、女性としての幸福さえも天秤にかけ、ただ異邦人である自分を「守る」ために、その身を捧げようとしている。
アレンはリィナの細い、けれど強く結ばれた指先を見つめた。
逃げ場のない運命を背負わされた自分を、彼女は理屈抜きで受け入れてくれた。ならば、その想いに応えないことこそが、最大の不誠実ではないのか。
アレンは迷いを捨て、真っ直ぐに彼女の瞳を見据えた。
「分かった。……頼む、リィナ。俺の、パートナーになってくれ」
「……はい、喜んで」
二人は静かに手を重ねた。アレンの岩のように大きく、熱を帯びた手が、リィナの小さく、震える手を優しく、しかし力強く包み込む。
リィナが、鈴の音を転がしたような、短くも精緻な詠唱を紡いだ。
刹那、重なり合った掌から、網膜を焼くほどの眩い黄金の輝きが溢れ出した。光の奔流は意志を持つ糸となって二人の身体を幾重にも包み込み、皮膚を透過して、内側の魔力回路へと直接潜り込んでいく。
「っ……!」
アレンの全身に、リィナの持つ清廉で穏やかな、春の陽だまりのような魔力が流れ込んできた。同時に、アレンの内側で荒れ狂っていた濁流のような魔力が、リィナという完璧な「受け皿」を得て、音を立てて安定していくのが分かった。
二人の魔力波長が共鳴し、一つの完璧な円環を形成する。
それは「孤独」の終焉であり、運命を分かち合う「対」の完成だった。
やがて光は静かに収束し、部屋には再び夜の静寂が戻った。
「……これで、私たちは正式なパートナーです」
リィナは少しだけ潤んだ瞳で、世界を祝福するように温かく微笑んだ。
アレンの胸には、言葉にできない熱い塊が宿っていた。もう、一人ではない。冷徹に光る二つの月の下で、彼は生涯を共にする、たった一人の絆を確かに手に入れたのだ。




