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夕食を終えた後の、静まり返ったアパートの一室。
窓の外では、巨大な世界樹が呼吸に合わせるように淡く青白い燐光を放ち、その静謐な輝きがカーテンの隙間から部屋の隅々まで降り注いでいた。
「アレンさん、私、先にお風呂に入ってきますね」
「ああ、わかったよ」
アレンはソファに身を沈めたまま、平然を装って答えた。だが、リィナが脱衣所へ消え、浴室から微かな水音が響き始めた瞬間、彼は無意識に強く喉を鳴らした。
筋骨逞しく鍛え上げられた肉体。この世界に来て、魔力回路が覚醒してからというもの、アレンは己の身体機能が異常なほど活性化しているのを感じていた。血の巡りは速く、感覚は鋭敏になり、二十歳の男としての本能が、静かな夜の空気の中で疼いている。
(……なんだ、この感覚は。世界補正ってやつか? まるで思春期に戻ったみたいに、意識が過剰に昂ぶる)
アレンは自身の、岩のように大きな手を握り込み、湧き上がる雑念を無理やり排した。今の自分にそんな余裕はないはずだ。
彼は気を紛らわせるように、腰に提げたばかりの「アーク・リンク」を取り出した。リィナが用意してくれた、この世界の生活に不可欠な魔導端末だ。
「これ、音声入力とかないのか……。アプリ、起動」
画面をなぞると、精緻な幾何学魔法陣を模したアイコンが明滅し、ウィンドウが空中に浮遊するように展開された。だが、そこに並ぶ「エルディア共通語」の文字列は、アレンにはやはり理解不能な記号の羅列にしか見えない。
耳では共通語を理解し、話すこともできるのに、文字だけが視界を滑っていく。現代魔導文明の結晶を手にしながら、その恩恵を享受できない自分という存在の滑稽さに、アレンは深く溜息をつき、端末をテーブルに放り出した。
その時だった。
「すみませーん……」
浴室のドアの向こうから、湿り気を帯びた控えめな声が届いた。
「ん、どうした?」
「あの……タオルを忘れてしまって。棚にあるので、取っていただけませんか……?」
アレンの思考が一瞬でフリーズした。
王道すぎる、あまりに古典的なイベント。しかし、現実のそれは虚構のような甘やかさはなく、浴室から漏れ出す熱い蒸気と石鹸の清廉な香りが、彼の理性を容赦なく削り取っていく。
「……了解だ。持っていく」
アレンは棚の上の清潔なタオルを手に取り、浴室のドアの前へと立った。
磨りガラスの向こうには、湯気に包まれた銀髪の女性の、柔らかな輪郭がぼんやりと浮かんでいる。
「持ってきたぞ。ここに置いておく」
「あ、ありがとうございます……っ」
隙間から差し出された、水滴の滴る白く細い手。それがタオルを掴み、慌てて引き込まれる様子に、アレンは心臓が跳ねるのを感じながら、逃げるようにリビングへと戻った。
やがて、火照った顔を伏せ目がちに、リィナが浴室から出てきた。
湯上がりの肌は微かに桜色に上気し、濡れた白銀の髪が首筋に張り付いている。彼女が纏うのは、簡素ながらも清潔な部屋着。その飾らない姿が、かえってアレンの胸の奥を激しく締め付けた。
二人は再びテーブルを挟んで向かい合った。
淹れ直された茶の蒸気が揺れる中、リィナが意を決したように口を開いた。その瞳には、先ほどまでの羞恥を押し殺した、一人の「魔軌士」としての真剣な色が宿っている。
「アレンさん……今日の森でのことですが」
リィナは言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。
「アレンさんの放ったあの光束……私のバリアを割りもしなかった。ただ、存在しないもののように素通りして、背後の大木を貫通したんです。三重のバリアを、完全に維持させたまま」
「ああ……。そういう風になってるのを、素通りするようになってるんだ」
アレンは自分の《魔力直接操作》がもたらす現象を、拙い言葉で説明しようとした。
現代魔術の体系というフィルターを介さず、世界の理そのものを読み取り、干渉する彼の力。リィナたちが必死に構築した精密な術式は、アレンにとっては「容易に書き換えや無視ができる脆弱なプログラム」に過ぎなかった。
「……意味が分かりません。それに、無詠唱。この世界で、詠唱も回路も介さずに属性を操る者なんて……。アレンさんは、本当にルミナちゃんが言った通りの……」
リィナは一度言葉を切り、大きく深呼吸をした。
高鳴る鼓動を鎮めるように自身の胸に手を当て、彼女はアレンを射抜くように見つめた。
「アレンさん。私と『パートナー』を組んでください。一緒に迷宮へ行きましょう」
アレンは飲みかけの茶を、危うく吹き出しそうになった。
「……えっ。パートナー……? それは、その……結婚とか、プロポーズ、とかか?」
「ちっ、違います!!」
リィナは顔を真っ赤にして立ち上がった。椅子が激しい音を立てて床を叩く。
だが、彼女はすぐに消え入るような小声で、けれど確かな熱を込めて付け加えた。
「……いえ……この世界では、あながち間違いでも、ないんですけど……」
「……?」
アレンが混乱に陥る中、リィナは再び椅子に座り、震える手を膝の上で固く握り締めた。
「私は……セラフィナ様を信じることにします。そして、ルミナちゃんが託したあなたの力を。……私は、あなたを、アレンさんを最後まで守り抜くと、今ここで決めました」
窓の外では、二つの月が冷徹なまでに美しく夜空を照らしていた。
リィナの提案した「パートナー」。それは、アレンが想像していた以上の重みを持つ、この世界の理を繋ぐ「儀式」への誘いだった。
運命の歯車が、重厚な音を立てて再び回り始めた。




