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女神歴二一九七年二月十二日。
四大迷宮の一つ、サハリス砂漠王国の『幻砂冥廊』の最深部、五十二階層。
そこには、地上では決して味わうことのない、魂を直接削り取るような重圧と、渇いた熱気が渦巻いていた。
この一か月の間、アレンは常軌を逸した「並行攻略」を人知れず強行し続けていた。
誰にも悟られぬよう一階層へ転移しては王都のホテルへ戻り、そこからガルディア公国宮殿のアレン専用転移部屋へと跳躍する。 直後に『深古水環宮』の二十六階層へ潜り、公国の生命線である発電所用魔石を確保するため、二十五階層から二十一階層までを、魔獣を屠りながら「逆行」するのだ。
魔石を回収すれば再び転移で一階層、宮殿へ、そしてサハリスへと戻り、何食わぬ顔で『幻砂冥廊』の攻略を再開する。 大陸間を跨ぐこの過酷な強行軍を二度も完遂させながらも、アレンの魔力循環を受けるリィナとセリスの肉体に、目に見える疲労はなかった。
「……リィナ、顔色が悪いぞ。大丈夫か」
アレンが視線を向けると、リィナは銀髪の隙間から見える額に微かな汗を浮かべ、胸元を抑えていた。 彼女の固有能力である「思考読解」が、深層に満ちる澱んだ魔力──迷宮そのものが発する、実体を持たない悪意の「声」を拾い続けてしまっているようだ。
「はい……。でも、迷宮の『声』のような不快な響きが、頭に直接響くんです……」
リィナが苦しげに淡い青色の瞳を細める。 彼女を包む《三重魔導護膜》が、空間に満ちる精神汚染波と衝突し、目に見えぬ火花を散らしてチリチリと微かな音を立てていた。
「私は問題ありませんわ、アレン様。不愉快な気配ですが、令嬢としての誇りで跳ね返してみせますわ」
セリスがレイピアの柄をカチリと鳴らし、凛とした声でリィナを鼓舞する。 リィナはその言葉に背中を押されるように、深く息を吐いて頷いた。
最奥。天を突くような巨大な砂の扉が、重厚な地響きと共にゆっくりと左右へ開かれた。
その先に鎮座していたのは、灼熱の魔力を全身から放つ、巨大な砂の巨神であった。 かつて人類の誰もが目にすることのなかった、『幻砂冥廊』の真の支配者。 その巨躯が動くたび、広場の空気が物理的な圧力となってアレンたちの肌を刺した。
「セリス、リィナ。支援を頼む。……一気に終わらせるぞ」
「了解いたしましたわ! ──《閃光破》!」
セリスがレイピアを掲げた瞬間、太陽を地上へ引きずり下ろしたかのような極大の閃光が室内を白く染め上げた。 巨神の視界が奪われ、その動作に僅かな迷いが生じる。
「《水鎖縛陣》、最大出力です!」
リィナが地面に術式を展開し、無数の高純度な水の鎖が床から噴出した。 水の鎖は砂の巨躯を雁字搦めに拘束し、高圧の魔力でその動きを完全に封じ込める。
巨神は激しい咆哮を上げ、鎖を振り払おうと身悶えした。だが、その頭上には、漆黒の瞳に冷徹な理を宿した死神が既に舞い降りていた。
アレンは空中で右手を掲げ、指先を眼下の巨大な核へと向けた。
「……終わりだ」
術式という微細な数式を必要としない、純粋なる理の行使。
アレンの指先から、数束の極太な光の条が放たれた。
──《多重光束》。
光速で駆け抜けた魔力の奔流は、巨神の硬質な外殻を紙細工のように容易く貫通した。
中心核を一点の曇りもなく撃ち抜かれた巨神は、叫びを上げることさえ許されず、音もなく巨大な砂の山へと崩落していった。
十秒後。その巨体は迷宮のシステムに飲み込まれるように吸い込まれ、後に残されたのは、夕日のように赤く輝く、天文学的価値を秘めた超巨大なボス魔石だけであった。
「……ようやく、外に出られますね」
一階層の安全地帯まで転移で戻ると、リィナは精神を蝕んでいた汚染から解放された安堵に、細い肩を揺らして息を吐いた。
地上へ出ると、夜も更けた王都サハラームの街並みが三人を迎えた。 迷宮の熱気とは異なる、乾燥した砂漠の心地よい夜風が、戦い抜いた肌を撫でて通り過ぎる。
「完全攻略の後の夜風も、悪くありませんわね」
セリスが軍服の襟に付いた砂を払い、気品ある足取りで歩き出す。
「アレン様、明日は一日ゆっくり休みたいです……」
「そうだな。ホテルに着いたら、泥のように眠るといい」
アレンは二人の誓導者の歩みに合わせ、ゆっくりと街路を進んだ。
背後に聳える迷宮の影を置き去りにし、理外の男と二人の女性は、静まり返った王都の闇の中へと消えていった。




