15-3
女神歴二一九七年一月二十八日。
四大迷宮の一つ『幻砂冥廊』二十五階層の安全地帯に、渇いた砂の匂いを孕んだ朝が訪れた。 石造りの壁面に埋め込まれた魔導灯が、アレンたちの紺銀の軍服を静かに照らし出している。
「アレン様、失礼します。……《三重魔導護膜》」
リィナが銀髪を揺らしながら、朝の儀式として三人に多層の防御膜を施した。 物理的な衝撃だけでなく、階層を深めるごとに増していく精神汚染波を遮断するための備えだ。
「よし、二十六階層を目指すぞ」
アレンの短い号令と共に、三人は大回廊へと足を踏み出した。 立ち塞がったのは、二十五階層の主、砂岩を凝縮したような巨大な守護獣であったが、その命運は一瞬で尽きた。 アレンが右手の指先を向け、術式さえ介さない純粋な魔力の超高密度光線 ──《光束魔術》を放つ。 光速で放たれた一閃は守護獣の核を寸分違わず撃ち抜き、戦闘と呼ぶにはあまりに短い、瞬き一つの間に敵を塵へと帰した。
「何度拝見しても、アレン様は本当に凄まじいですわね。既存の迎撃理論が、音を立てて崩れていくようですわ」
セリスがレイピアの柄に指をかけ、感嘆と少しばかりの呆れを混ぜた溜息を吐く。 アレンはそれに応えず、背後に残された巨大なボス魔石を一瞥しただけで、先を急いだ。
二十六階層。
その入り口にある安全地帯に辿り着いた瞬間、アレンは足を止め、空間の理へと意識を沈めた。 この世界の空間座標を自らの魔力で固定し、記憶する。 後の転移を確実なものとするための慎重な「仕事」だ。
「……? アレン様、あそこに誰かいます」
リィナが通路の先を指差した。 その視線の先、薄暗い回廊を、一人の探索者がふらふらと、力なく歩いていた。
三人は警戒の密度を上げ、無機質な軍靴の音を響かせながら距離を詰める。 近づくにつれ、その人物の異質さが際立っていった。 瞳は虚空を見つめて焦点が合っておらず、何かに憑かれたように、ただ一定のリズムで足を進めている。
「……これは、洗脳でしょうか? 魔力波長が、何者かに無理やり上書きされているようですわ」
セリスが冷静に状況を分析し、眉を寄せた。 アレンはその波長の歪みを、世界樹の理に基づいた直感で捉え、さらに深く読み取っていく。
「誘導されているな。奇妙なのは、周囲の魔獣がこの男をまるで認識していないことだ。……だからこそ、この深層でも死なずに進めている」
本来であれば、迷宮の魔獣は侵入者に対して狂暴なまでの殺意を向ける。 しかし、この探索者は迷宮の一部として「定義」されているかのように、完全に黙殺されていた。 迷宮そのものが、この男を生かしたままどこかへ運ぼうとしている。
「この分だと、ボス部屋さえ素通りしてしまいそうですわね」
セリスの言葉に、アレンは顎を引いた。
この探索者を正気に戻すのは、アレンの力なら容易い。
だが、正気に戻したところで、この深層から彼を一人で帰すことは不可能だ。
「……アレン様、もう少し先に何人かの気配を感じますわ」
セリスが鋭い視線を闇の奥へと向けた。
アレンは一時的にその探索者を放っておく判断を下す。
魔獣に襲われないのであれば、今は急ぐべき先がある。
三人がセリスの指し示した方角へ向かうと、広場のような空間に異様な光景が広がっていた。
十数名の探索者たちが、焦点のない目でうろついている。 彼らは一定の範囲から出ようとせず、まるで「見えない檻」の中に閉じ込められているかのようだった。 石造りの床に這う赤黒い魔力の澱みが、彼らの足元を拘束し、精神を深淵へと引きずり込んでいる。
「どうやら、ここが集合場所のようだな。迷宮によって精神を囚われ、心地よい夢でも見せられている状態か」
アレンが漆黒の瞳を細め、空間を満たす不気味なノイズを分析する。
そこに、先ほど見つけた探索者が合流するように近づいてきた。 合計で十六名。 全員が熟練の探索者であるはずだが、今の彼らはただの動かぬ人形に過ぎなかった。
「迷宮は、彼らをどうするつもりなのでしょう……?」
リィナの不安げな呟きが、静まり返った広場に虚しく響く。
アレンは沈黙し、目の前の光景を世界樹の循環という視点から観察し続けた。
迷宮の意志、あるいは防衛本能。 それが何を目的に人間を家畜のように集めているのか。 未だ答えは出ないが、一つだけ確かなことがあった。
この「檻」は、理外の力を持つ自分たちの前では、あまりに脆いということだ。
「とりあえず、こいつらを外へ出すぞ」
アレンの低い声が、精神の檻に支配された静寂を塗り替えた。




