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女神歴二一九七年一月二十七日。
夜明け前の薄明かりが王都サハラームを包む中、アレン、リィナ、セリスの三人は四大迷宮の一つ『幻砂冥廊』の入り口に立っていた。 砂漠の迷宮特有の、喉を焼くような乾燥した空気が肺を満たす。 アレンは迷宮の奥底へと続く暗い階段を見据え、落ち着いた声で告げた。
「今回は二十一階層まで一気に飛ばす。足場はこちらで固定するが、速度には慣れておけ。疲れたらすぐに言え」
「はい、アレン様。心の準備はできています」
リィナが銀髪を耳にかけ、魔導ロッドを握りしめて頷く。
「承知いたしましたわ。遅れを取るような無様は見せませんわ」
セリスも不敵に微笑み、腰のレイピアの柄に指をかけた。
アレンが右手を軽く掲げた瞬間、迷宮の「常識」が音を立てて崩壊した。
アレンの《魔力直接操作》が空間そのものの理を書き換え、三人の足元に物理法則を無視した「不可視の浮遊領域」を構築する。
「……セリス、風を」
「お任せください! ──《疾風推進》!」
セリスが後方へ向けて絶え間なく圧縮された風の推進力を送り込む。
アレンが制御する魔力の波に乗り、三人は一筋の光条となって迷宮内を滑走し始めた。
通常の探索者が数日かけて踏破する低層階の回廊が、凄まじい速度で後ろへと流れていく。 立ち塞がる魔獣たちは、アレンが指先一つ動かすことなく、ただその圧倒的な移動魔力圧によって弾き飛ばされ、壁へと激突して魔石へと還っていった。
三人の周囲では、急激な加減速と環境魔力の変動から身を守るための《三重魔導護膜》がパリン、パリンと微かな音を立てて火花を散らしているが、リィナはアレンの魔力循環に意識を集中させ、その「音速の行進」を平然と維持していた。
午前中が過ぎる頃、三人は二十一階層の安全地帯へと滑り込んだ。
今朝入り口を潜ったばかりの迷宮を、わずか数時間でここまで突破したのだ。 そこには、サイード支局長が言及していた調査用の前線キャンプが設営されていた。
「……っ!? な、なんだ貴様らは!」
防魔テントから飛び出してきた上級魔軌士たちが、汚れ一つない軍服で現れた三人を二度見し、戦慄の表情を浮かべた。 彼らにとって、この階層は数週間の行軍の果てにようやく辿り着く「死線」である。
「お騒がせしてすみません。現在の階層状況を確認させていただけますか?」
リィナが歩み寄り、控えめながらも凛とした声で問いかけた。
「状況だと……? 理由も分からず行方不明者が出るわ、精神を焼くような魔力圧が深層から逆流してくるわで、全域調査もままならない状態だ!」
魔軌士の一人が、脂汗を拭いながら吐き捨てるように言った。
「分かりました。私たちはさらに先へ進みます。何か掴んだら、戻り際にお伝えしますね」
リィナが丁寧に一礼し、アレンの隣に戻る。 局員たちは、これからさらに深層へ挑もうとする三人の異常性に気づき、掛ける言葉を失って呆然と見送るしかなかった。
三人が再び踏み出した瞬間、職員たちの視界からその姿が「消失」した。
衝撃波さえ置き去りにする超加速。 観測者には、ただ一陣の熱風がキャンプ地を吹き抜けたようにしか見えなかったはずだ。 二十一階層のボス魔獣は、三人の姿を網膜に捉えることさえ許されず、一瞬の光束によって核を貫かれ、塵へと帰した。
二十二階層に足を踏み入れた瞬間、セリスが険しい表情で眉を寄せ、飾緒の揺れを抑えた。
「……何か、この階層から魔力の流れが変ですわ。前回来た時には感じなかった禍々しさです」
「リィナの《三重魔導護膜》がなければ、幻でも見せられていたかもしれませんね」
アレンの漆黒の瞳が、薄暗い回廊の奥に漂う不気味な紫色のノイズを射抜く。
「……これは『闇』。精神魔力の浸食、あるいは洗脳の類ですわ。あの男……アザルの魔力に似ています」
セリスの冷静な分析に、アレンは短く頷いた。
「じゃあ、答えは出ているな。探索者たちはこの魔力に誘導されているのか。……リィナ、大丈夫か?」
「はい。……不快な囁きが聞こえてきますが、遮断できています」
リィナは淡い青色の瞳に強い意志を宿し、光と水の多層膜を安定させた。
「でも人工的な作為は感じませんわ。おそらく、迷宮そのものの意志……あるいは防衛本能かもしれませんわね」
「悪人が出てこないだけまだマシだ。行くぞ」
二十二階層、二十三階層、二十四階層。
アレンは各階層を支配する守護獣を、もはや戦闘とも呼ばぬ事務的な「光束」の一撃で排除していく。 立ち止まることのない蹂躙。
やがて三人は、人っ子一人いない二十五階層の安全地帯へと辿り着いた。
石造りの壁面には、深層特有の濃密な魔力が赤黒い澱みとなってこびりつき、絶え間なく空間を揺さぶっている。
「誰もいませんね。静かすぎて、耳鳴りがしそうです」
リィナが周囲を警戒し、魔導ロッドの端を握り直す。
「迷宮は五階層ごとに環境が劇的に変わる。……おそらく、二十六階層からがこの『闇』の正体だ」
アレンは一九二センチの長身を休めるように壁に預け、漆黒の瞳を閉じた。
「今日はここまでだ。リィナ、セリス、ゆっくり休んでおけ。明日からは、さらに深くへ踏み込むぞ」
理外の男がもたらした、音速の蹂躙劇。
だが、迷宮の奥底から噴き出す不穏な魔力は、これから始まる「精神の檻」との戦いが、これまでの階層とは決定的に異なる性質のものであることを予感させていた。




