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二一九七年一月十一日。アザルによる世界規模の精神汚染危機を乗り越え、束の間の静寂が戻ったガルディア公国。首都ガルディアスの空は冬の透き通るような青に染まり、公国宮殿の公女王執務室には、柔らかな陽光が大きな窓から差し込んでいた。
室内を漂うのは、最高級の茶葉が放つ芳醇な香りと、電子機器が発する僅かな駆動音だけだ。公女王エリシアは、繊細な意匠が施されたカップをソーサーに置き、対面に座るアレン、そして傍らに控えるリィナとセリスへ視線を向けた。
「アレン殿。……実はお二人にも、折り入ってお願いがあるの」
エリシアの言葉に、アレンは深く椅子に身体を預けたまま、無言で先を促した。その漆黒の瞳は、女王の穏やかな表情の裏にある「国家元首」としての計算を冷静に読み取っている。
「宮殿内には、かつて他国の王族を迎えるために造られた別邸がいくつかあります。その一軒を、これからはあなたたちの住まいとして使ってほしいのです」
「……住まい、か」
アレンの低い呟きに、エリシアは真剣な面持ちで頷いた。
「あなたたちは、今やガルディア公国にとって不可欠な『守護者』。市井の高級ホテルでの長期滞在は、警備の面でも、そして国家としての体面上も望ましくありません。何より、ヴァルゼン帝国をはじめとする諸国があなたの動向に血眼になっている今、宮殿の外に置くリスクは看過できないわ」
アレンは数秒の沈黙を選び、脳内で合理性を天秤にかけた。ホテルの年間契約料は天文学的な額に達しつつある。ガルディアの切り札として扱われる以上、その懐に入るのは情報の秘匿や安全の確保において理に適っていた。
「……まあ、確かに。断る理由もないな。問題ないなら、使わせてもらうよ」
「決まりね。後で侍従長に案内させるわ。好きな家を選んで頂戴」
エリシアの許可が出た瞬間、それまで緊張した面持ちで控えていたリィナとセリスの顔がぱっと輝いた。特にリィナは、銀髪を揺らしながら嬉しさを隠しきれない様子だ。だが、エリシアの表情はすぐに引き締まり、本来の「本題」へと移った。
「それと──こちらが今回の要請なの。当国が抱える迷宮に潜ってもらえないかしら」
ガルディア公国の四大迷宮の一つ、『深古水環宮』。アレンはこれまで、四大迷宮の完全制覇を目標に掲げながらも、この迷宮の攻略をあえて後回しにしていた。サハリスの『幻砂冥廊』のような精神干渉の強い地を先に踏破することで、誓導者たちの成長を促す算段があったからだ。
「最近、二十一階層あたりのボス魔石の蓄積が芳しくないのよ」
エリシアが少しだけ困ったように眉を下げて説明を続けた。アレンは、その言葉の裏にある国家の心臓部の鼓動を理解していた。
「魔石発電所用、だな」
公国の総発電量の約二十パーセントを担う魔石発電所。そこには、四大迷宮の二十一階層から二十五階層で産出される特定の高純度魔石が、原子力発電所における核燃料のごとき役割として必須となる。ノルディア王国との戦争や、アークレストでの事件を経て、電力インフラの安定が国家存亡に直結することを再認識した今、その燃料確保は最優先事項だった。
「わかりました。未攻略の二十四階層、そして二十五階層のボスまでは、俺たちが引き受けよう」
「助かります。あなたたちが行ってくれるなら、これ以上の安心はありませんわ」
エリシアは安堵の溜息を吐き、微笑んだ。アレンは立ち上がる寸前、ふと思い出したように言葉を添えた。
「……あ、それと。首都外縁の寺院にいるドラゴンのことだけど」
その問いに、エリシアは一瞬だけ驚きを見せたが、すぐに静かに頷いた。
「ええ、知っています。……四大公爵家の当主と私だけに代々伝わる、この国の絶対機密よ。私も実物は見たことがないけれど……。アレン殿、他言は無用に願えるかしら」
「ああ、承知した」
アレンは、ドラゴンの「寝ていただけだ」という怠惰な咆哮を思い出し、公国の最高機密の正体がそれであることに内心で苦笑しながら、執務室を後にした。
案内された宮殿内の別邸は、手ぶらで引っ越してきたアレンたちが気圧されるほど、贅の限りを尽くした建築物だった。
重厚な防魔石で組まれた外壁、最新の魔導空調によって常に一定の湿度と温度に保たれた室内。だが、それ以上に三人を困惑させたのは、玄関ホールに整列していた光景だった。
「……メイドさんが、多いですね。皆さん、お綺麗です」
リィナが不思議そうに首を傾げ、淡い青色の瞳で女性たちを見つめた。そこに並んでいたのは、明らかに「選りすぐり」と呼ぶに相応しい、若く容姿端麗なメイドたちだった。一糸乱れぬ所作で深々と頭を下げる彼女たちの周囲には、プロとして磨き抜かれた魔力波長が漂っている。
(……これは、ハニートラップの類か、あるいは……)
アレンは彼女たちの過剰なまでの「美」と「礼節」を分析し、エリシアの悪戯っぽい表情を脳裏に浮かべた。後日、アレンが直接その意図を問いただした際、公女王は視線を微かに逸らしながら、「あなたたちの身の回りを整えるためよ。決して、変な意図ではないわ。……たぶん」と、実にあやふやな回答でお茶を濁したのだった。
別邸での新生活は、期待を遥かに上回る「落ち着かなさ」で始まった。
「見てください、アレン様! お部屋がこんなに広いです! 足音が響くくらいですよ」
リィナは小鳥のようにはしゃぎ、磨き抜かれた廊下を軽やかな足取りで駆けていく。田舎育ちの彼女にとって、この豪華な邸宅は御伽噺の城そのものに映っているのだろう。
一方で、辺境伯令嬢として最高級の教育を受けてきたはずのセリスは、別の意味で限界を迎えていた。
「……あ、いえ。着替えは自分でするから結構です。お茶も、今は必要ありませんわ。……っ、そんなに、じっと見ないでちょうだい!」
メイドたちの至れり尽くせりの奉仕に、彼女の「誇り高く、かつ照れ屋」な気質が完全に空回りしていた。世話を焼こうとするメイドたちの献身的な視線に耐えかね、顔を赤くして自室へ逃げ込む姿は、戦場での凛とした姿からは想像もつかないものだった。
「……落ち着かねえな」
アレンは広いリビングにある高級ソファに深く沈み込み、ポツリとぼやいた。
給仕に立つメイドたちは、「理外の守護者」であり、序列を無視した特級第十一位であるアレンに対し、まるで神でも拝むような敬意と憧憬を含んだ眼差しを向けてくる。
「アレン様、何か御用でしょうか!」「何なりとお申し付けを。お疲れであれば、魔力マッサージの手配も可能でございます!」
「……いや、いい。普通にしててくれ」
アレンは彼女たちの熱烈な奉仕を制し、目を閉じた。
最新の電子制御された照明が、夕暮れの街を穏やかに照らし始める。豪華すぎる新生活、そして目前に迫る『深古水環宮』の攻略。
理外の男と、二人の誓導者。彼らの新しい物語は、迷宮の探索よりもずっと「人間関係」に翻弄される、賑やかな幕開けとなった。




