14-1
女神歴二一九七年一月一日。アレン・ヴァルグレイがこの世界、エルディアに召喚されてから、ちょうど一年の歳月が流れた。
アレンの故国にあるような「年賀」という華やかな風習は、ここガルディア公国には存在しない。しかし、冬の澄み切った大気が肺を満たす感覚は、どこか新しい始まりを予感させた。アレンはリィナとセリスを連れ、首都外縁にひっそりと佇む古い寺院へと足を運んでいた。
今では失われた水の神格を祀るというその寺院は、現代的な魔導工学の恩恵を受けた都市部とは対照的に、冷徹な静寂と濃密な環境魔力に包まれていた。足元の石畳からは、数百年の歳月が刻んだ凍てつくような冷気が伝わり、周囲の木々が雪を被って静かにアレンたちの歩みを見守っている。
「この国では、宗教といえば世界樹信仰がほとんどだな」
アレンが吐き出した白息が、冬の陽光に溶けていく。隣を歩くリィナが、穏やかに微笑んで頷いた。
「はい。世界樹は生命の源ですから。ルミナス聖王国のような国もありますが、あそこも宗教というよりは、世界樹信仰の総本山があるという側面が強いみたいです」
アレンは、冬の日差しに透けるリィナの銀髪を眺め、ふと思った疑問を口にした。
「リィナはよく、宗教関係にスカウトされなかったな。それだけの魔力があれば、放っておかれないだろ」
「小さい頃はあったみたいですよ。私はよく覚えていないんですけれど」
リィナが控えめに応じる横から、セリスが鋭い口調で割って入った。
「何言ってるんですか。リィナの光属性は凄まじいんですから、絶対ルミナスあたりに攫われそうになっていたはずですわ」
セリスの言葉に含まれた「攫われる」という不穏な響きに、アレンは眉をひそめた。
「攫われるだなんて、今の時代にそんな過激なことがあるのか? 勧誘ならまだしも」
「アレン様、聖王国の光への執着を甘く見てはいけませんわ。希少な光の乙女を確保するためなら、彼らは手段を選びません。公国の保護がなければ、今頃どうなっていたか」
セリスの断言に、リィナが困ったように頬をかいた。
「攫われるってのは言い過ぎですけれど……。そういえば小さい頃、白い服の人たちが家に来たことは覚えています」
「え?」
アレンが足を止める。
「絶対それ、ルミナスの巫女スカウトですわ!」
セリスは興奮気味に身を乗り出すが、アレンは依然としてそのオカルト染みた「人攫い」の可能性には懐疑的だった。理を愛でる彼にとって、近代化されたこの世界でそのような野蛮な行為が公然と行われるとは考えにくかったからだ。話題を変えるように、アレンは別の疑問を口にした。
「ちなみに、女神教っていうのはないのか?」
「セラフィナ様の宗教……というよりは、文化的信仰ですね。教団組織はあると思いますけど。……多分、歴史的な英雄を敬うようなものでしょうか」
セリスの答えを聞きながら、一行は寺院の最深部へと辿り着いた。魔力が濃密に淀み、空間そのものが微かに陽炎のように揺らぐ広場。そこには、エルディアの歴史そのものを見守り続けてきた「主」がいた。 アレンが歩み寄ると、重厚な大気がさらに密度を増し、巨大な影が実体となって現れた。
「ド、ドラゴン……! 凄い。本当にいるなんて」
セリスが青い瞳を驚愕に見開き、息を呑んだ。伝説の魔獣を前にしても、アレンは平然と、以前この場所で出会った時と同じトーンで声をかけた。
「二か月ほど前、お前何やってたんだ? 空に閃光が走った時があったろ」
ドラゴンの巨大な鼻から地響きのような唸りが漏れた。
『……知らんなぁ……』
とぼけるような態度に、アレンが腰に下げた無骨な剣の柄に指をかけた。刹那、ドラゴンの瞳に緊張が走り、途端に言葉を崩した。
『おいおい。悪かった……まぁええやん。結界が壊れたら出ようと思っとっただけやで』
アレンは抜く気のなかった手を離した。この巨獣は、アレンが第一召喚時に「尻尾を切った」という理外の記憶を本能的に恐れているのだ。
「……まあいい。それより、お前のことって公国の重鎮は知っているのか?」
『そりゃ。知ってるやろ……。むぅ~……。人前に出たのが何年前かあんまり覚えてなくてな。人間は寿命が短いし……記憶が怪しくなってきたわ』
「いつも、食事はどうしてるんだよ?」
『その辺の魔力で十分なんや』
アレンは溜息を吐き、目の前の巨躯を見上げた。
「……お前が国を護っているんじゃなくて、ただ寝ていただけだってのは良く分かった」
『護っとるわ! 寝ながら護っとるんや!』
ドラゴンの咆哮が寺院の静寂を揺らした。だが、巨獣はふと、アレンの傍らに控えるリィナとセリスを金色の瞳で交互に見つめ、羨望の混じったため息を漏らした。
『……しかし、アレン。お前はつがいが二人もいて良いな。わしには、一人もおらんのに』
「……何の話だ?」
『わしの話や。わしは生まれてこの方、一度も同種に会ったことがないんや。この広い世界で、わし一人が取り残されたようなもんや。人間は寿命が短いし、記憶もあてにならん。話し相手もお前くらいなもんやからな』
ドラゴンは寂しげに大きな首を垂らし、重い溜息を吐いた。その風圧が雪を舞い上げ、三人の軍服を揺らす。だが、巨獣はすぐに何かに気づいたように顔を上げ、アレンの魂の深淵を覗き込むような眼差しを向けた。
『……そういえば、以前のつがいはどうしたんや? セラフィナ様とは、子は出来なかったのか?』
広場を支配していた静寂が、さらに深く、重くなった。
「セラフィナ様と……子?」
アレンの漆黒の瞳に、わずかな困惑が浮かぶ。彼にはその記憶がない。だが、ドラゴンの瞳に宿る真剣な光が、単なる戯言ではないことを物語っていた。
リィナはショックを受けたように両手で口元を覆い、セリスは驚きのあまり持っていたアーク・リンクを落としそうになった。
「アレン様と、セラフィナ様が……『つがい』……?」
リィナの声は震えていた。彼女の思考読解はアレンの戸惑いを正確に捉えていたが、ドラゴンの言葉が持つ真実味までは否定できなかった。
「な、何を言っていますの、このドラゴンは! 女神様とアレン様が、そのような……そんな……!」
セリスは顔を真っ赤にしながらも、詰め寄るドラゴンの言葉の重みに気圧されていた。
ドラゴンは二人の反応を不思議そうに眺め、当たり前の事実を告げるように言った。
『わしの目から見れば、あの頃のお前らは魂の波長が完全に重なり合っとった。あれはドラゴンで言うところの「つがい」そのものやったで。エルフと人間で子が成せるかは知らんが、それくらい親密な仲に見えたんや』
リィナは複雑な表情で視線を落とし、セリスはアレンの失われた過去、その「愛」の対象であったはずの女神に対して、隠しきれない強烈なジェラシーを覚えた。アレンは数秒の沈黙の後、静かに応じた。
「……記憶にないな。俺にとって、彼女は自分を召喚した女神に過ぎない」
『ふん、そうか。……切ない話やなぁ』
ドラゴンはそれ以上追及せず、再び大きな咆哮を上げて寺院の静寂を揺らした。それは、忘れ去られた過去への哀悼のようにも聞こえた。
帰り道、三人の間には少しばかり気まずい、だがどこか温かさを孕んだ沈黙が流れていた。
「陛下はどうしてるかな」
アレンが話題を転換するように、遠い宮殿の主を想う。
「忙しいと思いますよ。アークレストの事後処理で」
セリスが現実的な見解を述べる。その声には、先ほどまでの嫉妬を押し隠し、一国の魔軌士としての冷静さが戻っていた。
「でも、陛下ならきっと前を向いています」
リィナの明るい声が、新しい一年の始まりを祝福するように響いた。
三人は冬の陽光の中、王都へと続く道を歩き出す。 二一九七年。この理外の男の物語は、忘れ去られた過去の残像を追いながら、今、新しい一頁をめくろうとしていた。




