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その日の夜。
サハリス砂漠王国の王都サハラーム。日中の暴力的な陽光は影を潜め、代わりに冷徹な月光が黄金の砂丘を銀色に染め上げていた。
アレンたちが滞在する「ヴァルシオン・ホテル」の最上階レストラン。ここは、最新の魔導工学と贅の限りを尽くした空間であり、天井には演出照明が、本物よりも鮮やかな砂漠の星空を投影していた。
夕食のためにリィナとセリスを伴って回廊を歩いていたアレンの前に、その女性は忽然と姿を現した。
夜の砂漠を体現したかのような、艶やかな褐色の肌。計算し尽くされた深いスリットの入った真紅のドレスが、歩むたびに彼女のしなやかな肢体を惜しげもなくさらけ出す。彼女の瞳は、傲慢なまでの自信を湛えた金色に輝いていた。
静まり返った回廊に響く、硬質なヒールの音。コツ、コツという規則正しいリズムが、まるで心臓の鼓動を支配するように重く響く。
彼女が近づくにつれ、肌表面を覆う不可視の波長が火花を散らすような、ピリついた緊張感が走る。それは物理的な風ではなく、空間そのものが圧縮されるような、圧倒的な魔力圧であった。
これほどの高密度な魔力、そして不敬なまでの存在感。
「いい男ね。これからお暇かしら?」
女性の問いに、アレンは長身を微動だにせず、漆黒の瞳で彼女を真っ向から見据えた。
「……ああ。構わない」
アレンが短く応じた。背後でリィナとセリスが同時に息を呑み、魔力の波長を鋭く尖らせる気配がしたが、アレンはあえて振り返らなかった。
レストラン内へと促されるが、そこには極めて不自然な光景が広がっていた。アレンへ声をかけた女性の誓導者と思われる、屈強な騎士の風貌をした男性と、白銀の髪を持つ女性がアレンたちの正面のテーブルを占拠し、リィナとセリスは離れた席へと引き離されたのである。
「乾杯」
その一言で始まったコース料理は、死のような沈黙の中で進んだ。だが、その裏側では、目に見えぬ凄まじい情報の激突が始まっていた。
彼女のまとう魔力は、火の熾烈さと、砂の粘り強さを併せ持っている。そしてその奥底に、底知れない「精神系」の揺らぎが潜んでいる。
周囲の音が不自然に遠のいている。これは「認知フィルター」による大規模な精神迷宮の展開だ。彼女は言葉ではなく魔力によって、このレストラン内に『二人だけの領域』を定義し、リィナやセリス、給仕係さえも、俺の存在(色)を認識できなくさせている。
……俺を試しているのか。それとも、外界からの干渉を拒絶する「特級の作法」か。
女性は薄く笑みを浮かべ、絶え間なくアレンの精神回路へ干渉の糸を伸ばし続ける。彼女の「認知フィルター」は、向かいに座る彼女の褐色の肌が陽炎のように揺らめき、世界の輪郭が曖昧になっていく。
しかし、その悪意を孕んだ糸がアレンの肌に触れる寸前、すべてが最初から存在しなかったかのように霧散していった。リィナが毎朝施す守りの波長《三重魔導護膜》が、アレンの無意識の《魔術消去》と同調し、理外の防壁を形成していたのである。
デザートが並び始めた頃、アレンがようやく口を開いた。
「聞きたいことがあるんだが」
「スリーサイズは秘密よ♡」
女性は蠱惑的に微笑むが、アレンの瞳は冷徹なままだ。
「……食事中、延々と俺で実験するのはやめてくれ」
アレンの言葉に、女性の眉が微かに跳ねた。彼女の「フィルター」を無意識に、そして完封し続ける男の異質さに、わずかな戦慄が走る。
「あなた、聞いた通り本当に凄いわね。……人間なの?」
「……質問に答えてもらおうか。人を操る精神魔術に長け、少し頭が飛んでいる男を知らないか? 特に、歴史に名を残そうとしているタイプだ」
アレンの問いに、女性の瞳から艶やかな色が消え、真顔になった。彼女の周囲に渦巻く魔力波長が、粘りつくような精神干渉から、瞬時に爆発的な火属性の圧へと変質し、周囲の空気を物理的に凍りつかせる。
「そんなの、この国には腐るほどいるわよ。もっと、く・わ・し・く♡」
「……人の精神は魔力で書き換えられると信じ、世界大戦争を望んでいる奴だ」
その瞬間だった。
女性の表情から一切の遊びが消え、底知れない冷徹さがレストランの空間を支配した。
「……ノルディアの件ね」
彼女は短く吐き捨てると、アレンを値踏みするように見据え、冷めた声で告げた。
「私に仕事が回ってくると面倒だわ。あなたの方で片付けておいてくれる?」
「俺も面倒事は嫌いだ。なるべく早く終わらせたい」
アレンの答えを聞くと、彼女は一瞬だけ、天を突くような重い魔力を解き放った。
「《アザル・ハル=サーミ》」
その名は、サハリスの闇に葬られたはずの研究者のものだった。
「記録上は行方不明。今は《アシェル・グレイヴ》という偽名で、アークレスト王国に潜伏しているらしいわ」
女性は残りのデザートを優雅に堪能すると、スッと席を立った。その所作には、一分の隙もない。
「ごちそうさま♡ 今度はベッドの中で会いましょう?」
特級魔軌士No.6、セラフィナ・アルシェルは、毒のような余韻と、アレンの魂に刻まれた深い疑念を残して、夜の闇へと消えていった。
ホテルのスイートルームに戻ると、室内の温度は砂漠の夜よりも冷え切っていた。
リィナとセリスの二人が、あからさまに、そして苛烈に機嫌を損ねていたからである。
「……アレン様、ああいう人が好みなんですね」
リィナの瞳には、三重魔導護膜よりも遥かに強固で冷徹な「拒絶」の色があった。彼女の思考読解は、アレンが「セラフィナ」という名に過剰に反応したこと、そしてあの女性に抱いた無意識の動揺を、決して見逃してはいなかった。
「……別に気にしてないけど? 全然、これっぽっちも」
セリスはレイピアを手入れするふりをしながら、ツンとした態度で横を向いた。だが、その指先はわずかに震え、青い瞳にはアレンを独占したいという烈火のような情動が、隠しきれずに漏れ出している。
「アークレスト王国か。アーク・リンクの製造国なら、黒幕との繋がりも見えそうだな」
アレンは二人の視線から逃げるように話題を逸らしたが、彼女たちの追求は止まらない。
「はい。ほぼ独占状態です。……でも、ケーキには勝てません」
「……セリス、お前は宮殿のエリシア陛下に連絡を入れておけ」
「わかりました。……でも、アイスクリームが良いです」
アレンは二人の静かな、しかし絶対的な要求に降参し、ルームサービスのメニューを手に取った。
「……わかった。人数分頼んでおく」
ルームサービスを注文するアレンの漆黒の瞳の奥で、アザルという名、そして「セラフィナ」という名の符合への疑念が、静かに、しかし消えることのない炎となって燃え続けていた。
灼熱の砂漠の夜、アレン・ヴァルグレイの視線は、既に東大陸 ── 世界を繋ぐ魔導技術の最先端にして、最大の「罠」が仕掛けられた地へと向けられていた。




