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二一九六年十二月十一日。
ガルディア公国の中央を貫く運河が薄く氷を張り、街路樹の梢が凍てついた風に鳴る。
和平交渉から約三週間、公都ガルディアスには静謐な冬の帳が降りていた。 だが、公国宮殿の深奥、エリシア公女王の執務室だけは、外気の冷たさとは異なる、鋭利な緊張感に支配されていた。
アレン、リィナ、セリスの三人は、公女王エリシアの召喚を受け、重厚な防魔扉の前に立っていた。
アレンは巨躯を包む、紺と銀を基調とした軍服風のフルオーダー礼装の襟を無造作に正した。その隣では、白を基調とした魔力織布の衣装を纏うリィナが銀髪を揺らし、セリスは紺色のジャケットに刻まれた銀の飾緒を無意識に握りしめている。
重厚なマホガニーの机の上に広げられた、公国情報局の刻印が押された極秘文書の束。エリシアの青い瞳は、寝不足のせいか微かに血走っている。
窓を打つ小雪の微かな響き。エリシアが文書をめくる、カリ、という硬質な音。
室内を満たす、高級な香木と魔導インクの混ざり合った香り。リィナの三重魔導護膜が、エリシアの放つ「焦燥」という名の魔力波長を微かに捉え、チリチリと震えている。
三週間の沈黙。情報局がようやく黒幕の「尻尾」を掴んだか。だが、その対価として払うべき代償が、エリシアの表情をこれほどまでに曇らせているのか。
「……待たせましたわね、アレン殿」
エリシアは掠れた声で言い、机の上の資料を三人の前へと滑らせた。そこには、以前作戦室で解析した人工魔力の波形データと、南大陸サハリス砂漠王国の非公開研究機関に関する詳細が記されていた。
「情報局が命懸けで持ち帰った最終報告です。……軍務卿を蝕んでいたあの魔力は、間違いなくサハリスの精神魔術研究局《アーラム機関》で作られたものでした」
セリスが身を乗り出し、鋭い視線で文書を追う。
「迷宮『幻砂冥廊』の精神系魔力を抽出し、魔力署名を人為的に書き換える禁忌技術……。やはり、人間の仕業だったのですね」
「ええ。ですが、問題はその先です。現存するメンバーを洗っても、黒幕に繋がる確証は得られませんでした。……多くの優秀な研究員が、数年前から『行方不明』、あるいは『記録上の死亡』として処理されているのです」
エリシアは一度言葉を切り、一枚の顔写真付きの資料を抜き出した。
「情報局の追跡も、そこが限界でした。ですが、この件に深く関わっているかどうかは極めて不確かですが、可能性があるとすれば……と思われる人物が、サハリス国内に一人だけ存在します。……いえ、正確には『接触可能な唯一の希望』です」
エリシアが提示した名前を見た瞬間。
アレンの全身を、理外の「衝撃」が駆け抜けた。
「特級魔軌士No.6。……セラフィナ・アルシェル」
アレンの思考が、真っ白なノイズに塗りつぶされた。
「セラフィナ」。その音に触れた瞬間、胸の、腕の、首筋の蔦状の紋様が、血を流すような熱を帯びて拍動した。記憶のどこにも存在しないはずの、銀髪の女性の背中が、一瞬だけ陽炎のように脳裏をよぎる。
単なる偶然か? この世界の歴史において「女神セラフィナ」は唯一の神格だ。その名を持つ特級魔軌士。これほど不自然な「情報の空白」が続く国で、同じ特級として活動する彼女なら、何らかの『違和感』を拾っている可能性がある。
……魂が、行けと叫んでいる。この胸の熱は、理の修正を求めているのか、それとも、失った何かを求めているのか。
「……セラフィナ?」
アレンの唇から漏れた声は、自分でも驚くほど低く、地鳴りのような重みを孕んでいた。
「アレン様……?」
隣に立つリィナが、アレンの微かな魔力波長の乱れを敏感に察知し、不安げに彼の袖をきゅっと握った。 目視しているリィナの瞳には、アレンの心の奥底に渦巻く、凪いだ海を突き破るような激しい「情動」の飛沫が映っていた。
「あら……。女神様と同じ名を持つなんて、随分と不敬な魔軌士ですわね。サハリスの貴族だとは聞いていましたが」
セリスが腕を組み、不機嫌そうに鼻を鳴らした。彼女の青い瞳には、アレンが「見知らぬ女の名前」に反応したことに対する、無意識の独占欲と警戒心が、鋭い火花となって散っている。
エリシアは三人の反応を見守りながら、重く頷いた。
「彼女はサハリス王家の相談役も務める実力者です。情報局の工作員では接点すら持てません。……特級を動かせるのは、同じ特級の資格を持つ者だけです」
エリシアは立ち上がり、真っ直ぐにアレンの漆黒の瞳を見据えた。
「アレン殿。サハリスへ向かい、彼女から《アーラム機関》の内情を聞き出してほしいのです。……これは、ガルディア公女王としての公式な『依頼』です」
アレンは、胸の奥で脈動し続ける「熱」を沈めるように、深く、長く息を吐き出した。
「……承知しました。サハリスへ向かいます。……俺個人としても、確かめたいことができた」
アレンの冷徹な言葉の裏に潜む、かつてないほど激しい「情動」を、リィナの魔力感知が鋭く捉えていた。彼女は何も言わず、ただ支えるようにアレンの袖をそっと握った。
「アレン様。……準備は、既に整っております」
リィナの穏やかな声が、アレンの精神回路を凪へと戻していく。
アレンは周囲を確認し、この場にいるのがエリシアと誓導者二人だけであることを再認識すると、漆黒の瞳に深い集中を宿した。
「他国での行動になる。……秘密裏に入り、秘密裏に動くぞ」
アレンの指先が、十月に行ったサハリス遠征時に記憶した座標 ── 王都サハラームの最高級施設「ヴァルシオン・ホテル」の、特級魔軌士専用スイートルームを正確に捉えた。
「《空間転移》」
アレンの無詠唱魔術が、世界の理を書き換えた。
衝撃も、音も、光さえも置き去りにしたまま。
三人の姿はガルディアスの執務室から完全に消失し、残されたホログラムの青い光だけが、誰もいなくなった空間を虚しく照らしていた。
一瞬の浮遊感の後、鼻孔を突いたのは乾燥した熱気と、高級な香木の香りだった。
視界が晴れると、そこにはガルディアの冷たい執務室ではなく、ヴァルシオン・ホテルの豪奢な調度品と、外界の魔力干渉を完全に遮断する特級結界に守られた、静かなスイートルームが広がっていた。
アレン・ヴァルグレイ。
理外の男は、失われた記憶の断片と、世界を弄ぶ悪意を追って、黄金の砂が舞う灼熱の地へと、誰にも知られることなく降り立ったのである。




