13-2
ガルディア公国とノルディア王国の和平交渉が正式に合意され、歴史的な一日は幕を閉じたはずだった。 だが、公国宮殿の中央作戦室には、祝祭の余韻など微塵も存在しなかった。
そこにあるのは、数十基の電力駆動の解析コンソールが無機質に刻む電子音と、重厚な石壁が吸い込みきれない、むせ返るような沈黙である。
アレン・ヴァルグレイ、リィナ・フェルウェン、セリス・ヴァレンティアの三人は、かつて軍務卿レグナードが倒れていた司令官席の周辺に滞留する「澱み」を凝視していた。
司令官席の背後、本来なら何もないはずの虚空に、肉眼では捉えきれないほど薄い「黒い霧」が揺らめいている。それは陽炎のように空間を歪ませ、不自然な幾何学模様を描きながら、獲物を待つ蜘蛛の糸のようにそこに固着していた。
解析モニターが放つ「キィィィィ」という鼓膜を刺すような高周波。壁面の電力網が一定の周期で不気味に明滅し、パチパチと乾いた放電音が、まるで誰かの忍び笑いのように静寂を破る。
肌に粘りつくような嫌悪感。体表一センチ外側に常時展開されている三重魔導護膜が、目に見えない微細な「毒」と干渉し、チリチリと静電気のような震えをアレンの全身に伝えてくる。
これは自然の理が生んだ不運でも、魔術の暴発でもない。誰かが明確な殺意と、神をも恐れぬ傲慢さで書き上げた「破滅への台本」の残滓だ。
「……まだ、消えていないな」
アレンが巨躯を屈め、漆黒の瞳を細めて、虚空に残る魔力の糸に視線を合わせた。彼の紺銀のフルオーダー礼装が、明滅する照明の下で鈍い光を放つ。
「アレン様、これ……密度だけなら迷宮の二十五階層級(深層)に匹敵しますね」
リィナが銀髪を震わせ、アレンの傍らで真剣な眼差しを向けた。彼女の体表を覆う魔力膜が、周囲の澱みを拒絶するように淡い燐光を強める。
「ですが、構造が決定的に違います。自然界の魔力にあるはずの『揺らぎ』や『曖昧さ』が、どこを探しても見当たらないのです」
「ええ、その通りよ。リィナ。……これを見て」
セリスが紺色のジャケットの袖を捲り上げ、アーク・リンクのスキャナーを最大出力で起動した。空間に投影されたホログラムウィンドウには、残留魔力の波形が映し出される。
それは、見る者を戦慄させるほど「美しく、残酷な」波形だった。
サインカーブのように規則正しく、小数点以下の桁数まで完全に一致する周波数の連続。
「この魔力、不自然なほど整列されている。まるで……複雑な数式を無理やり物質化させ、この世界へ出力したみたいだわ」
アレンは、セリスが提示したデータの一点を見つめたまま、言葉を失ったように沈黙した。
この「黒い霧」は、そこに存在すること自体が目的ではない。これは、誰かが設置した『センサー』であり、同時に『導火線』だ。
波形の規則性は、情報の伝達効率を極大化するためのものだ。……いや、違う。これは効率ではない。情報を『感染』させるための最適な形状だ。アーク・リンクの回路設計を熟知した何者かが、ハードウェアを直接ハッキングするために作り上げた「毒」だ。
……理が泣いている。世界の理の外側で、人間が神の領域を真似ようとした結果の、悍ましい不協和音がここにある。
アレンの思考が結論に達した、その瞬間だった。
解析装置と直結された作戦室の電力網が、突如として生物的な「脈動」を始めた。
ドクンッ、という地鳴りのような重低音が床から響く。
壁面のモニター群が一斉に赤黒いノイズで塗りつぶされ、解析にあたっていた数名の文官たちが、「あ、あ……」と声を漏らしてその場に膝をついた。
「なっ……何が起きているの!?」
セリスが悲鳴を上げながら、手元で狂ったように火花を散らすアーク・リンクを放り投げた。
「解析データを通じて、人工魔力が電力回路へ逆流している! こいつは情報を探る者を逆に『食う』つもりだ!」
アレンの鋭い叱咤が作戦室を揺らした。
天井の照明が耐えきれぬ電圧負荷により爆ぜ、室内に真紅の閃光が走る。
電子の海を渡る「見えない牙」は、アーク・リンクを媒介にして、文官たちの、そしてリィナたちの精神回路へ直接食らいつこうと跳ね上がった。
パリンッ!
「きゃあぁっ!」
リィナの周囲で、硬質な破砕音が響き渡った。
彼女の体表一センチを覆う三重魔導護膜の一層目が、感染を試みた人工魔力の触手を物理的に弾き落とし、火花を散らして即座に再生する。
リィナの瞳に恐怖が浮かぶが、アレンはその前に踏み出していた。
アレンは長身を反らし、虚空に向けて右の掌をかざした。
その動作に一切の迷いはない。
「《魔力直接操作》──全系統強制遮断」
術式も詠唱も介さない。世界の根幹波長と同調するアレンの理外の力が、暴走する電子の「理」そのものを力ずくで掴み取った。
凄まじい衝撃波が室内の空気を物理的に押し出し、モニターに渦巻いていた黒いノイズが、アレンの不可視の圧力によって一瞬で「無」へと回帰させられる。
パチリ、と最後の一火花が消え、作戦室に再び、死のような静寂が戻った。
「……助かったわ。アレン様。あんなの、魔術じゃない……。ただの殺戮プログラムよ」
セリスが額の脂汗を拭いながら、震える声で呟いた。
彼女の青い瞳には、攻撃魔術の天才ゆえに理解できる、今の「攻撃」の異常さへの戦慄が刻まれていた。
「セリス、今の魔力の特性……どこかで見覚えはありませんか?」
リィナが倒れた文官たちの元へ駆け寄り、浄化魔術の準備をしながら問いかけた。
「……ええ。南大陸サハリス砂漠王国の『幻砂冥廊』ダンジョン深層で見られる、精神干渉系魔術特有の『粘り気』よ」
セリスは床に落ちた自分のアーク・リンクを忌々しげに見つめ、言葉を継いだ。
「あそこには精神魔術の研究に特化した、国家非公開の《アーラム機関》という闇部門があるはず。……これは間違いなく、その系統の技術だわ」
アレンは漆黒の瞳を細め、黒い影が消え去った司令官席をじっと見つめ続けた。
その背中は、かつてないほどの冷徹な殺気を帯びている。
「……黒幕は、人間だ」
その一言が、作戦室の温度をさらに数度下げた。
「神が理を乱したのではない。人が、自分たちの都合で理を書き換えようとした。……許されることじゃない」
一時間後。三人は公女王エリシアが待つ執務室へと向かった。
宮殿の長い回廊を歩くアレンたちの軍靴の音が、静まり返った館内に重く反響する。
窓から差し込む冬の月光が、アレンの無表情な横顔を白く照らし出していた。
執務室の重厚な防魔扉が開くと、そこには和平交渉の疲れを隠しきれない、しかし毅然とした姿勢で椅子に座る公女王エリシアの姿があった。
アレンは、先ほど起きた「電力網の暴走」と「精神感染の試み」、そして解析された人工魔力がサハリス砂漠王国の《アーラム機関》の特性と一致することを簡潔に報告した。
報告を聞き終えたエリシアは、深く、深く沈み込むように玉座の背もたれに体を預けた。
彼女の白く細い指先が、机の上に置かれた自分のアーク・リンクに触れ、微かに震える。
「……アレン殿。リィナ殿、セリス殿。調査に感謝します」
エリシアの声は、調停者としての理性を保とうとしながらも、悲痛な響きを帯びていた。
「ですが……。あなた達三人に、ここでの『待機命令』を出します」
「待機……。これほどの事態を前にして、ですか?」
セリスが驚愕に声を上げた。
「セリス、公女王の仰る通りです」
リィナがセリスの袖を優しく引き、首を振った。
「アレン殿……あなた達はガルディアの切り札、そしてこの世界の均衡を守るための最後の楔です。事実関係も不明なまま他国の闇部門へ特級魔軌士を踏み込ませるわけにはいきません。それは……外交上の、取り返しのつかない宣戦布告と同義になります」
エリシアは立ち上がり、窓の外に広がるガルディアスの夜景を見つめた。
「調査は情報局を使い、極秘裏に、かつ迅速に進めます。……他国に気取られることなく、《アーラム機関》の現況を暴くのが先決です」
公女王としての苦渋の決断。アレンはそれを聞き、ただ静かに長身の体を折り、頭を下げた。
「……承知しました。命令に従います」
三人が執務室を辞し、廊下へ出た。
「アレン様……」
リィナが不安げに銀髪を揺らし、アレンの袖を握りしめた。彼女の思考読解は、アレンの心の奥底に沈殿する、凪いだ海のような冷徹な決意を捉えていた。
「わかっている、リィナ。……表向きの平和は保たれなければならない」
アレンは窓の外を見つめ、懐にあるアーク・リンクを無造作に握りしめた。
(アーク・リンクを媒介にした精神干渉。……これは一国のクーデターで済む話じゃない。世界そのものが、知らないうちに誰かの指先に繋がれているのと同じだ)
アレンの漆黒の瞳の奥で、世界樹の理を歪める者への、静かな、しかし決して消えることのない怒りの炎が灯っていた。
表面上の戦争は終わった。
だが、ガルディア公国の深い影の中で、目に見えない情報の激突、そしてアレン・ヴァルグレイによる「理の修正」 ── 黒幕狩りの火蓋が、音もなく切って落とされたのである。
アレン・ヴァルグレイは、まだその名は知らぬ「台本作家」の影を追い、理外の深淵へと最初の一歩を踏み出した。




