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二一九六年十一月二十一日。
ガルディア公国の至宝と謳われる公国宮殿は、初冬の透き通るような、しかし肌を刺すほど冷徹な緊張感に包まれていた。
かつて軍務卿レグナードが引き起こした「黒い霧」の動乱によって硝煙に汚された回廊は、今や磨き上げられ、何事もなかったかのような静謐を取り戻している。だが、その壁の奥、大議場の重厚なオーク材の扉の向こうで行われているのは、大陸の勢力図を根底から書き換える和平交渉であった。
黄金の結界が反射する淡い光。円卓の上で、自国の未来を切り売りする書類を前に震えるレオニールの指先。
規則正しく時を刻む壁時計の音。魔導ペンの走るカリカリという乾いた音だけが、広大な議場に響く。
室温を数度下げたかのような、張り詰めた沈黙。喉の奥にこびりつくような、微かな焦げた電子基板の臭い。
紙の上の平和。だが、その裏側にある「理」の歪みは、一通の署名で拭えるほど浅くはない。
「……本日を以て、ガルディア公国とノルディア王国の停戦を正式に合意する」
公女王エリシアの凛とした、しかしどこか疲労の滲む声が議場に響いた。
対面に座るノルディア新国王レオニールは、その華奢な肩に背負った敗戦という名の十字架の重みに耐えかねるように、深く、重く頷いた。
「……承知した。我が国も、これ以上の流血は望まぬ」
今回の戦争における最大の焦点は、ノルディア王国による「宣戦布告なき先制攻撃」という動かしがたい事実であった。
ガルディアの地方都市を蹂躙し、民を凍えさせたその一撃こそが、両国の対立を決定的なものにしたのだ。レオニールは父王ヴァルターが遺したこの大罪を、自らの代で清算せねばならなかった。
「あの国境での衝突は、魔力通信の不具合による『事故』である……。双方、異論はないですね?」
エリシアの問いに、レオニールは沈黙で応じた。
軍務卿が「黒幕」に操られ、クーデターを企てたという衝撃的な事実は、ノルディア側には一切伏せられている。国家の威信を守り、敗戦国に付け入る隙を与えないための、冷徹なまでの政治的隠蔽であった。レオニールたちノルディア一行は、自国の軍務卿さえもが「状況」の被害者であったことなど、夢にも思っていない。
「先制攻撃による都市被害への賠償として、北部鉱山地帯の共同管理権をガルディアへ委譲すること。……よろしいですね?」
その条件は、ノルディアにとって骨を削るような内容であった。自国の電力インフラ再建に必要な魔石資源を差し出すことは、国家の緩やかな死を意味する。だが、滅びを待つだけの彼らに、拒否権などという贅沢な盾は残されていなかった。
レオニールの背後には、護衛としてノルディアが誇る特級魔軌士No.31、ミレイア・フロストヴェイルが控えていた。白銀の髪を揺らし、淡い氷色の瞳で室内を観察する彼女は、ノルディア軍部の狂熱の中で唯一「正気」を保っている参謀格であった。
その隣には、彼女の誓導者であるエルミアが寄り添い、主の緊張を和らげるように魔力循環を整えている。
ミレイアは、議場の隅に影のように佇む長身 ── アレン・ヴァルグレイへと視線を向けた。
アレンはリィナ、セリスとお揃いの、紺と銀を基調とした軍服風のフルオーダー礼装を纏っている。そのあまりに無機質で、かつ圧倒的な存在感に、ミレイアの背筋を氷のような悪寒が走り抜けた。
(……何なの、あの男は。……魔力が『見えない』。いや、そこだけ空間が欠落しているような……)
ミレイアの額に、じわりと脂汗が滲む。彼女の氷結魔術による鋭敏な魔力感知が、アレンの周囲に渦巻く「理外の重圧」を捉えていた。それは敵意ではなく、ただそこに存在するだけで世界の属性を屈服させるような、絶対的な捕食者の気配であった。
アレンはミレイアの視線に気づくと、漆黒の瞳をわずかに細め、短く言葉をかけた。
「……そちらの国王は、随分と重い荷物を背負わされたようだな」
「……ええ。死んだ王が遺した呪い(せんせいこうげき)を解くには、一生では足りないでしょう」
ミレイアの声は微かに震えていた。これほど至近距離にいながら、アレンの「底」が一切見えない。ガルディア公国騎士団長さえもが木刀一本で下されたという噂が、いまや真実味を帯びて彼女の心臓を締め上げる。
その時、議場の天井の照明が一瞬、パチリと不気味な音を立てて爆ぜ、真紅の火花を散らした。
参列者たちが驚愕に肩を跳ねさせる中、アレンだけがその火花の中に、意志を持つかのように蠢く「黒い澱み」を捉えていた。
平和への喝采が響くこの議場に、不協和音が混じっている。軍務卿から引き剥がした「影」と同じ、粘りつくような魔力波長が、空間の隅で脈動しているのを感じる。
宮殿内の電力網が不自然に明滅している。これは単なる電圧の不安定ではない。軍務卿の精神に寄生していた「人工魔力」の残滓が、周囲の魔力と干渉し、アーク・リンクや照明といった無機質な回路を媒介にして、解析を行っている文官たちの精神へ跳ね返ろう(感染しよう)としているのだ。
……理外の悪意。知識を武器にする者への、最も残酷な罠だ。この和平の席さえも、黒幕の台本作家にとっては実験場に過ぎないというのか。
アレンの視界には、議場の華やかな装飾の隙間に、数学的に整列された不自然な魔力の糸が蠢いているのが鮮明に見えていた。
「アレン様……。空気が、また濁り始めていますわ」
リィナが銀髪を震わせ、アレンの心の奥底に沈殿する濁った葛藤を掬い取るように、小声で囁いた。
「ああ。……表面上の決着はついた。ここからは、本当の掃除の時間だ」
アレンの声は、氷のように冷ややかだった。
「リィナ、セリス。準備を。……お前たちの衣装が汚れる前に、この国の『不純物』をすべて消す」
「承知いたしました。アレン様が行くところなら、どこへでも」
「ふん、当然ですわ。これ以上、この国の品位を汚されるのは我慢なりませんもの」
和平という名の幕が下りた舞台の裏で、アレン・ヴァルグレイの「理の修正」 ── 黒幕狩りが、いま真の幕を開けようとしていた。




