12-11
重厚な作戦室の取っ手へとアレンが指をかけた、その刹那。 防魔処理が施された厚いオーク材の扉が、内側からの圧力に耐えかねたかのように悲鳴を上げて砕け散った。
吹き飛ぶ木片の合間から、墨汁をぶちまけたような「黒い魔力」の奔流が溢れ出す。
鼓膜を揺さぶる重低音の爆鳴。それは物理的な爆発音ではなく、魔力が空気を無理やり引き裂く断末魔であった。
肌に粘りつくような冷気。室温は一瞬で氷点下まで下がり、吐き出した吐息が白く凍りつく。
やはり、ただの反乱ではない。理の外側から持ち込まれた「不純物」が、この国の心臓部を侵している。
「……っ、リィナ!」
「はい、アレン様! 《光盾》!」
アレンの鋭い指示に、リィナが即座に応じた。彼女の周囲に漂う光属性の燐光が凝縮され、アレンとセリスを背後から包み込むように、淡い青の魔力障壁が展開される。アレン自身はその障壁を突き抜け、一九二センチの巨躯で黒い霧を強引に割りながら、暗闇に包まれた作戦室へと足を踏み入れた。
室内は、戦略を練るための聖域としての面影を失っていた。 壁面の大型モニターは焼き切れ、火花を散らして沈黙している。空調設備は異常をきたし、天井からは不気味なノイズと共に凍てついた風が吹き降ろしていた。渦巻く黒い霧が視界を遮る中、司令官席に深々と座り込む人影があった。
「……軍務卿、そこにいるのか」
アレンの低い声が、霧の奥へと響く。 椅子がゆっくりと回転し、軍務卿レグナード・ファルシオンが姿を現した。だが、その瞳には高潔な軍人としての意志はなく、白濁した瞳孔が焦点の定まらぬままアレンを射抜いていた。 彼の全身からは、制御を失った黒い魔力がバチバチと不気味な放電を繰り返している。
「……アレン……殿……。私は……私は……ガルディア……を……」
レグナードの口から漏れる声は、酷く歪んでいた。 苦悶に満ちた本人の意識を、冷徹に響く「別の声」が覆い隠そうとしている。
『……戦え……憎しみを……燃やせ……ガルディアのために……』
「軍務卿、しっかりしろ!」
アレンが一歩踏み出す。その時、レグナードの背後の空間が、陽炎のように音もなく歪んだ。人型を成さない、漆黒の霧の塊。 しかし、そこには冷酷なまでの確かな知性が宿っていた。
この「影」は実体ではない。遠隔地からの魔力投影、あるいは残留思念に基づいた自動術式だ。
波長がノルディアのそれとは異なる。サハリス砂漠王国の迷宮から抽出された「精神系魔力」特有の、粘りつくような嫌悪感だ。
……器を壊さず、この「影」だけを剥離させる。それ以外に救う道はない。
「アレン様……! あれは……生きた魔力そのものですわ!」
ここでようやく、アレンの背後からリィナがレグナードの姿を視界に捉えた。 彼女の固有能力である思考読解が、レグナードの精神の深淵を覗き込む。
「軍務卿閣下の心が……バラバラに引き裂かれています。自分ではない何者かの意志が、強引に神経を繋ぎ替えているのが見えます……!」
リィナの顔が恐怖で青ざめる。彼女の目に映るのは、愛国心という脆い隙間に食い込んだ、底知れない悪意の糸であった。
「……黒幕……!」
セリスもレイピアを構え、その異形を睨みつけた。 彼女の誇り高い青い瞳には、同国の重鎮を弄ぶ外道への、峻烈な怒りが宿っている。
黒い影が、嘲笑うかのように揺れた。
『……器は脆いな。だが、利用価値はある。この国を、この世界を乱すためのな』
その言葉が、軍務卿が単なる政治的暴走ではなく、意図的に「器」として操られていたことを確定させた。影はレグナードの肉体を完全に飲み込もうと、その密度を増していく。
「う……あああああああああッ!!」
レグナードが椅子から転げ落ち、石床に爪を立てて絶叫した。
『……戦争を起こせ。憎しみを……!』
「やめろッ!!」
アレンの指先が、虚空を水平に薙いだ。
──《光刃魔術》。
光速で形成された銀白の刃が、作戦室の闇を一瞬で塗り替えた。物質も魔力障壁も問わず切り裂く「理外」の一撃は、レグナードの肉体を傷つけることなく、その背後に憑りついた黒い影だけを、寸分違わず断ち切ったのである。
断末魔さえ上げず、黒い霧はアレンの光刃によって、その存在を「無」へと回帰させられ、完全に消滅した。
「軍務卿!」
アレンは膝をつき、崩れ落ちたレグナードの肩を力強く掴んだ。
「あなたはガルディアの軍人だ! 国を守るために、これまで泥を啜って戦ってきたはずだろう!」
「……私は……私は……!」
レグナードの瞳孔が激しく収縮し、なおも暗黒の残滓がその意識を揺さぶる。 アレンは《魔力直接操作》を通じて、自らの澄んだ魔力波長をレグナードの精神回路へと叩き込んだ。
「黒幕に利用されるな! 自分の意志を取り戻せ! 目を覚ませッ!!」
その叱咤が、呪縛を打ち砕いた。
濁っていたレグナードの瞳に、本来の、厳格だが誇り高い鋭い光が戻った。
「……私は……陛下に対し……何を……」
黒い霧が完全に晴れた室内で、レグナードは力なく膝をつき、自分の震える手を見つめた。
「軍務卿。あなたは黒幕に利用されていただけだ。……もういい」
アレンの声には、敵への怒りではなく、同じ国を背負う者への静かな慈悲が宿っていた。
「……すま……ない。陛下……。国を……頼む……」
それだけを言い残し、レグナードは糸が切れた人形のように意識を失い、静かに倒れ込んだ。
作戦室に、エリシア公女王と文官たちが駆け込んできた。
「……軍務卿を医療室へ! すぐに治療を。そして……」
エリシアは倒れたレグナードを悲痛な目で見つめ、凛とした声で言葉を継いだ。
「……拘束しなさい。どのような理由があれ、彼は犯した罪を償わねばなりません。それが、彼の軍人としての誇りを守ることにもなるでしょう」
「アレン殿……。あなたがいなければ、この国は……内側から終わっていましたわ」
エリシアが、深い感謝を込めてアレンを見上げた。
「まだ終わっていません。……黒幕がいる」
アレンは影が消えた虚空をじっと見つめたまま、短く答えた。 彼の胸中には、冷徹なまでの闘志が灯っていた。
ガルディア公国の動乱は、多大なる傷跡を残して収束した。 だが、世界を覆おうとする巨大な「闇」との戦いは、いま、この作戦室から真の幕を開けたのである。




