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サスペンションの効いた漆黒の馬車は、振動一つ立てずに夜の街道を滑るように突き進んでいた。
車内に満ちているのは、ソル・インペリウムの泥臭い湿気や硝石の不快な臭いではない。どこか涼やかで、澄んだ清涼感のある、上質な薔薇と燻煙の香りだった。
ふかふかのベルベットのシートに深く身を沈めながら、私は自分のひび割れた両手をそっと見つめた。指先からは相変わらず、どろりとした漆黒の魔力が糸を引くように滲み出ている。私の存在そのものが、光の国にとっては絶対の禁忌であり、穢れそのものだった。
「あまり、自分の手を惨めそうに見つめるものではないな」
対面に座るハドリアヌス殿下が、低く優しい声で言った。
彼が長革の手袋を嵌めた手を伸ばし、私の傷だらけの右手をそっと持ち上げる。その手つきは、あたかも壊れやすい最高級のガラス細工を取り扱うかのように繊細で、思わず息を呑んだ。
「殿下……汚れます。私の体から滲み出るのは、国一つを容易に滅ぼす『深淵の瘴気』です。触れれば、あなたのその美しいお肌も――」
「言ったはずだ、アウレリア。我が国にとって、その瘴気は呪いなどではない」
ハドリアヌスはかすかに口角を上げると、自らの指先に漆黒の魔力を宿らせた。
彼の手から発せられた魔力は、私の手から溢れ出る黒い血と触れ合った瞬間、まるで惹かれ合う恋人たちのように穏やかに混ざり合い、美しく甘やかな紫色の光を放って消えていった。
「なん……と……?」
「我が常夜の民は、遠い昔から夜の魔力と共に生きてきた。太陽の国が『穢れ』と呼んで地下に押し込め、お前一人に押し付けていたそのエネルギーは、我らにとっては大地を潤す至高の『魔素』なのだよ。お前が吸い上げ、体内で限界まで凝縮させた魔素は、我らから見れば奇跡のような高純度の宝玉に等しい」
ハドリアヌスはポケットからシルクのハンカチを取り出し、私の指先にこびりついた黒い血痕を丁寧に拭い去っていく。
「彼らは愚かだ。世界を維持するための至宝を『泥』と見誤り、それを一身に引き受けてくれていた聖女を『魔女』と呼んで追い払ったのだからな。……アウレリア、お前が耐えてきた苦痛の長さを思うと、私ですら腹の底から怒りが湧き上がってくる」
その深紅の瞳に宿っていたのは、私に対する心からの同情と、太陽帝国の愚行に対する真底の蔑みだった。
生まれて初めてだった。
私のしてきた努力を、絶望を、痛みを、正当に評価し、理解してくれた人間は。
ルシウスはいつも私を「気味が悪い」「お前が不甲斐ないから瘴気が溜まるのだ」と罵っていた。父である公爵すら「アウレリア家に生まれた以上、死ぬまで耐えろ」としか言わなかった。
喉の奥がツンと痛み、視界がじんわりと滲んでいく。私は必死に唇を噛み締め、零れ落ちそうになる涙を耐えた。
「泣いてもいいのだぞ。ここでは、お前を縛る義務も、蔑む視線も存在しない」
「……いいえ。泣きませんわ。……泣くのは、私ではなく……あの者たちですもの」
私が掠れた声でそう呟くと、ハドリアヌスは満足そうに目を細め、「ふっ、いい顔だ」と低く笑った。
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馬車が国境の巨大な大門をくぐり抜けたのは、夜が最も深まった時刻だった。
ソル・インペリウムとノクス・インペリウムを隔てる『黒鉄の連峰』を越えた瞬間、世界の色が劇的に変わった。
窓の外に広がるのは、永劫の夜に包まれた漆黒と銀の世界。天空には、太陽の代わりに巨大な紫紺の月と、無数の星々が宝石を撒き散らしたように輝いている。
街道の両脇には、青白い光を放つ美しい水晶の街灯が立ち並び、建物の屋根は黒銀の瓦で彩られていた。
そこは、太陽の光を必要としない、静謐で、洗練された、圧倒的な美を誇る闇の王国だった。
「ようこそ、我が故郷『黒銀の都』へ」
馬車が皇城の広大な前庭に到着すると、ずらりと並んだ漆黒の甲冑を纏う騎士たちと、気品ある美しいドレスを着た侍女たちが、一斉に深く頭を下げた。
「ハドリアヌス殿下、そして――アウレリア様。お帰りなさいませ」
誰一人として、私を忌み嫌う者はいなかった。それどころか、彼らの瞳には、救世主を迎えるかのような敬意と感謝が満ちていた。
私はハドリアヌスに手を引かれ、城の最上階にある豪華な客室へと案内された。
そこには、温かい薬湯が張られた巨大な大理石の浴槽と、最高級のシルクで飾られた天蓋付きのベッド、そして私のために用意されたという、夜空の色を溶かし込んだような美しいドレスの数々が用意されていた。
「まずは、その傷ついた体を癒すがいい。お前の体内に溜まりに溜まった過剰な魔素は、我が国の特製の大地成分を含んだ薬湯と、専門の魔導師の手によって、数日のうちに本来の健やかな状態へと再構成される」
「再構成……ですか?」
「そうだ。お前はただ瘴気を耐えていたのではない。その身を以て、世界で最も強大な魔力を練り上げ続けていたのだ。お前の肌が荒れ、髪が煤けていたのは、出口のない過剰なエネルギーが肉体を内側から焼き切ろうとしていたからに過ぎない。正しく循環させれば、お前は以前以上の美しさと、絶対的な魔力を手にすることになる」
ハドリアヌスは私の頬にそっと触れると、耳元で囁いた。
「楽しみにしておくといい。お前が真の姿を取り戻した時、あの太陽の国の連中がどれほど見苦しい顔をするかをな」
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その頃――ソル・インペリウムの首都は、既に地獄の様相を呈し始めていた。
大聖堂の地下、『黒の不寝番』。
アウレリアが去ってから、わずか六時間が経過した頃である。
「ひぃ、ひぃぃっ……! な、なんだこれは!? 何が起きている!?」
第一皇子ルシウスは、地下へ続く階段の踊り場で、腰を抜かして震えていた。
彼の自慢の白い礼服は、地下から噴き出してくるどす黒い不快な霧によって、無残にも黒く汚れている。
地下深くから聞こえてくるのは、まるで太古の巨大な怪物が目覚めたかのような、地鳴りのような不気味な咆哮。そして、視界を埋め尽くすほどの濃厚な「深淵の瘴気」だった。
アウレリアという名の「蓋」を失った深淵の穴からは、これまで数百年間蓄積されてきたドロドロとした呪いが、間欠泉のように噴き出し続けていた。
「ク、クラウディア! 何をしている! 早くお前の『光の魔法』で、この不吉な霧を消し去れ! お前は本物の聖女なのだろう!?」
ルシウスが叫び、隣で青ざめているクラウディアの腕を激しく揺さぶった。
クラウディアの美しい桃色の髪は乱れ、可憐だった顔は恐怖で引きつっていた。彼女は震える手で純白の杖を構え、必死に呪文を唱えた。
「ひ、光よ……清らかなる光の神よ、我が祈りに応え、この不浄なる闇を打ち払いたまえ! 『聖光波』!!」
クラウディアの杖の先から、眩いばかりの黄金の光が放たれる。
広場を埋め尽くす貴族たちや近衛兵たちは、「おお! さすが聖女様だ!」と歓声を上げようとした。
しかし――次の瞬間、誰もが己の目を疑うような光景が広がった。
クラウディアが放った純粋な光の魔力は、地下から溢れ出る瘴気に触れた瞬間、消し去られるどころか、瘴気の絶好の「餌」となって激しく爆発したのだ。




