泥を啜る聖女と、黄金の檻の崩壊
大聖堂の最下層、通称『黒の不寝番』と呼ばれる地下迷宮の空気は、いつでも死臭と硝石の匂いが混ざり合ったような、特異な冷気で満ちていた。
床を埋め尽くす黒御影石の隙間から、絶え間なく湧き出し続ける黒い霧――それこそが、我がソル・インペリウム(太陽帝国)を数百年間にわたり蝕み続けている「深淵の瘴気」の残滓である。放置すれば大地を腐らせ、作物を枯らし、人々を異形の魔獣へと変え果てさせる呪い。
その呪いを引き受け、我が身を濾過器として帝国の繁栄を支えること。それが、代々『聖骸の乙女』を輩出してきた我がアウレリア公爵家の、そして私、アウレリアの果たすべき義務だった。
「……くっ、あ、……」
喉の奥から、鉄の味がせり上がってくる。
私はきつく歯を食いしばり、それを強引に飲み下した。指先を見れば、爪の隙間からどろりとした漆黒の血が滲み出ている。私の皮膚は、瘴気を吸い上げ、体内で無害な魔力へと変換するたびに、血色を失い、ひび割れ、まるで生きながらにして腐敗していく死人のように変貌していった。
かつて、鏡の中にいた私は、燃えるような金髪と、澄んだ琥珀色の瞳を持つ、それなりに美しい少女だったはずだ。しかし今の私はどうだろう。髪は艶を失って灰を被ったように煤け、肌は幽鬼のように青白い。
すべては、この国のため。
そして――何よりも、私の婚約者であり、未来の太陽帝として輝くべき第一皇子、ルシウス殿下のためだった。
『アウレリア、君の犠牲は無駄にはしない。君が闇を引き受けてくれるからこそ、私は光の王として国を治められる。私が皇帝となった暁には、必ず君を世界で最も幸福な妃にしよう』
かつて、まだ幼かった頃にルシウスが囁いてくれたあの甘い言葉だけが、私の心臓を動かす唯一の薪だった。彼が光の当たる場所で微笑んでいられるなら、私はこの暗い地下で、どれほど泥を啜ろうとも構わない。そう信じて、今日まで耐え続けてきたのだ。
しかし、その日は突然訪れた。
「アウレリア・フォン・アウレリア。至急、大極光の間へ出頭せよ。ルシウス殿下がお呼びだ」
地下の鉄格子を叩く、近衛騎士の冷淡な声。
私は濁った視線を上げ、ボロ布のようになった漆黒の儀礼服の裾を震える手で整えた。殿下が私を呼ぶなど、ここ数年は一度もなかったことだ。瘴気の浄化作業は一刻の猶予も許されないはずなのに、なぜ。
胸を過る不吉な予感を必死に抑え込みながら、私は這うようにして地上へと続く階段を上った。
────
白亜の石材と純金の装飾で埋め尽くされた大極光の間は、地下の静寂が嘘のように、眩い光と大勢の貴族たちの熱気に満ちていた。
私が一歩足を踏み入れた瞬間、華やかな歓談の声がピタリと止む。
「おい、見ろよ……あの姿を」
「気味が悪い。本当に公爵家の令嬢か? まるで墓場から這い出てきたゾンビのようだ」
「衣服から瘴気の臭いが漂ってくる。穢らわしい……」
向けられるのは、容赦のない嫌悪と蔑みの視線。そして、扇の陰から漏れ出る嘲笑。
彼らが今、何不自由なく贅沢な暮らしを享受できているのは、私が地下でその「穢れ」をすべて引き受けているからだという事実に、誰一人として思い至らないらしい。いや、知っていて見ぬふりをしているのだ。人間とは、自らの幸福の礎となっている生贄の存在を、できるだけ視界から排除したがる生き物だから。
私は正面を見据え、ゆっくりと歩みを進めた。
玉座の前に設置された高壇の上。そこに、眩いばかりの金髪をなびかせ、極上の白い礼服をまとったルシウス殿下が立っていた。その瞳は、かつて私に向けられた優しさを完全に失い、ただ冷酷な光だけを宿している。
そして、彼の傍らには、見慣れない一人の少女が寄り添っていた。
絹のような薄桃色の髪に、潤んだ翡翠の瞳。純白のドレスを身にまとった彼女は、まるで春の女神そのもののようだった。彼女の名前は確か、クラウディア。新興貴族の令嬢であり、最近になって「稀代の光魔法の使い手」として社交界に現れた娘だ。
私はルシウス殿下の御前まで進み出ると、深く膝を折り、完璧な臣下の礼をとった。
「ルシウス殿下、お呼び出しにより参上いたしました。……そちらの令嬢は?」
私の掠れた声が響くと、ルシウスは不快そうに眉をひそめ、クラウディアの肩を引き寄せた。クラウディアは怯えたようにルシウスの胸に顔を埋め、上目遣いで私を盗み見る。その瞳の奥に、確かな優越感が揺らめいているのを、私は見逃さなかった。
「アウレリア。お前を呼んだのは他でもない。お前との婚約を、本日ただいまを以て破棄するためだ」
ルシウスの声が、広間に冷たく響き渡る。
貴族たちから、待っていましたと言わんばかりの低いざわめきが起こった。
「……婚約、破棄、でございますか」
私は頭を下げたまま、静かに言葉を返した。驚きはなかった。ただ、胸の奥が、氷水を流し込まれたように冷えていくのを感じる。
「そうだ。理由を言わねば分からぬほど、お前の頭は腐り果てたか? 見るがいい、その薄汚い姿を! 煤けた髪、死人のような肌、そして立ち込める不吉な魔力。お前はソル・インペリウムの皇太子妃となるべき器ではない。ただの薄汚い魔女だ!」
ルシウスの言葉は、容赦なく私を突き刺す。かつて『君の犠牲は無駄にしない』と言った男と同一人物とは到底思えない、痛烈な侮蔑だった。
「ですが、殿下。この姿は、帝国の地下深くにある深淵の瘴気を浄化し続けた結果にございます。アウレリア家が、そして私がこの役割を放棄すれば、帝国はたちまち――」
「黙れ、言い訳を! お前が地下で行っていたことなど、所詮は自己満足の怪しげな魔術に過ぎん。アウレリア家は、その不気味な力で我が皇室を脅かそうとしていたのではないか? だが、それももう終わりだ」
ルシウスは誇らしげに胸を張り、隣のクラウディアの腰を抱き寄せた。
「我が最愛のクラウディアを見よ! 彼女こそ、天から遣わされた本物の『聖女』だ。彼女の放つ清らかな光の魔法は、お前のような陰湿な方法をとらずとも、瞬時にして瘴気を霧散させる。現に、ここ数ヶ月、帝国の結界が安定しているのは、すべてクラウディアがその清らかな祈りを捧げてくれているからだ!」
「……クラウディア様が、ですか?」
私は顔を上げ、初めてクラウディアを正面から見据えた。
クラウディアは可憐に微笑み、鈴を転がすような声で言った。
「はい、アウレリア様。あなたのしてきたお仕事は、あまりにも残酷で、見ていて心が痛みましたわ。でも、もう安心してください。私の『光の治癒』があれば、地下で泥にまみれる必要なんてありませんの。どうか、その呪われた役目を私に譲って、楽になってくださいな」
心が痛んだ、という割には、彼女の瞳には微塵の同情も浮かんでいない。あるのは、最高位公爵家の令嬢を地位から引きずり下ろし、皇太子の寵愛を独占したという、歪んだ全能感だけだ。
なるほど、と私は心の中で冷徹に理解した。
すべてが繋がったのだ。
ここ数ヶ月、地下の瘴気の量が妙に減少し、私の負担がわずかに軽くなっていた理由。それは、クラウディアの魔法によるものでは断じてない。
私が地下で瘴気の「核」を命がけで抑え込み、完全に濾過して無害化した『残滓』――いわば、綺麗に処理された後の澄んだ空気の表面を、彼女が「光の魔法」とやらで少しだけ装飾し、さも自分がすべてを解決したかのように見せかけていただけなのだ。
ルシウスも、周囲の貴族たちも、魔術の本質を何も理解していない。
彼らは、表面的な美しさと華やかさに目を奪われ、その裏にある構造を、基盤を、何一つ見ようとしてこなかった。
「アウレリア。お前のような気味が悪く、心まで醜い魔女は、もはや我が国には不要だ。アウレリア公爵家は爵位を剥奪し、全財産を没収する。そしてお前は、今すぐこの国から永久追放とする!」
ルシウスが判決を言い渡す。
貴族たちから、拍手喝采が巻き起こった。
「素晴らしい! 殿下の英断だ!」
「これで帝国も、あの薄汚い魔女から解放される!」
「聖女クラウディア様万歳! ルシウス殿下万歳!」
その歓声を聞きながら、私はただ、静かに目を閉じた。
胸の中で、何かが音を立てて崩れ去っていくのが分かった。
それは、ルシウスへの、そしてこの国への、最後の未練だった。
私はこれまで、何のために肉体を痛めつけ、精神を削り、暗闇の中で血を吐きながら耐えてきたのだろう。
彼らの笑顔を守るため? この、愚かで、傲慢で、恩知らずな使いたちのために?
――馬鹿馬鹿しい。
あまりの滑稽さに、笑い声さえ出そうだった。
私が身を挺して支えていたからこそ、彼らはその「綺麗な服」を汚さずにいられたのだ。それを、基盤を腐らせて排除すれば、その上に立つ黄金の城がどうなるか、想像すらできないほどに彼らの頭脳は退化してしまったらしい。
私がこれまで維持してきた『大結界』と『瘴気濾過の契約』。それは、私という個人の肉体と魂を触媒として機能していた、超高等な魔術儀式だ。
私が「この国を守る」という意志を破棄した瞬間、その契約は自動的に解除される。
「アウレリア、何か申し開きはあるか? 泣き喚いて許しを乞うなら、辺境の修道院に幽閉するくらいの手加減はしてやってもいいのだぞ?」
ルシウスが、哀れむような、しかし徹底的に見下した笑みを浮かべて言った。
クラウディアは、勝利の余韻に浸りながら私を見つめている。
私はゆっくりと立ち上がった。
膝の痛みは不思議と消えていた。全身を巡る瘴気が、私の意志の解放を感知して、激しく脈打ち始めている。
私は、アウレリア公爵令嬢としての完璧な所作で、ドレスの裾を払った。そして、これまで一度も見せたことのない、冷徹で、極めて美しい微笑をその顔に浮かべた。
「いいえ、殿下。申し開きなど、何一つございません」
私は深く、最後のお辞儀をした。
「承知いたしました。では、さようなら」
────
私の口からその言葉が放たれた瞬間。
パキィン、と。
目に見えない「ガラス」が、世界中で同時に砕け散ったような、鋭い音が大極光の間に響き渡った。
「……? 何の音だ?」
ルシウスが怪訝そうに周囲を見回す。
しかし、何も変わった様子はない。貴族たちも首を傾げているだけだ。
彼らには見えないのだ。帝国の全土を覆っていた、目に見えない巨大な守護のヴェールが、今この瞬間、完全に霧散したことが。
「早くその不浄な者を追い出せ! 衛兵!」
ルシウスの命令により、数人の衛兵が私に近づこうとした。
しかし、私が一歩後ろへ下がると、私の足元から漆黒の霧が爆発的に噴き出し、衛兵たちは悲鳴を上げて後退した。
「な、何だこれは!? やはり魔術を……!」
「お引き止めには及びませんわ、殿下。私は、今この瞬間を以て、この国を去りますので」
私は振り返り、大極光の間の巨大な扉へと歩き出した。
誰も私を止めることはできなかった。私の周囲を渦巻く黒い霧は、触れるものすべてを腐食させる圧倒的な密度を誇っていたからだ。これこそが、私が今まで体内で抑え込み、無害化し続けていた「本物の瘴気」の、ほんの一部だった。
背後から、ルシウスの怒鳴り声が聞こえる。
「ふん、強がりを! 行くがいい、魔女め! お前がいなくなって、この国はますます清らかになるのだ!」
その言葉を背中で受けながら、私は大聖堂の門を抜け、外へと出た。
外は、すでに夕闇が始まりかけていた。
いつもなら、この時間帯は私の結界が最も強く働き、美しい紫色の夕焼けが見られるはずだった。
しかし、今の空は違う。
地平線の彼方から、どす黒い、血のような赤色を帯びた「常夜の霧」が、猛烈な勢いで帝国へと押し寄せてきているのが見えた。
「本当に、お愚かな人たち」
私は小さく呟いた。
私の浄化が止まったのだ。これまで数百年間、アウレリア家が地底に堰き止めていた「深淵の瘴気」の総量が、これから一気に地上へと逆流する。
クラウディアの「光の魔法」とやらが、大河の氾濫を小さな砂の城で防げるかどうか、見ものだった。
大聖堂の階段を下りきった私の前に、一台の馬車が停まっていた。
それは、帝国のものとは明らかに異なる、意匠の凝らされた漆黒の馬車だった。御者台に座る男は、帝国の人間ではない。夜の闇を溶かし込んだような、不気味で洗練された衣服を身にまとっている。
馬車の扉が静かに開いた。
中に座っていたのは、一人の男だった。
夜色の髪に、冷徹極まりない、しかし酷く美しい、深紅の瞳。
彼の手には、ソル・インペリウムと長年敵対している、北方の『常夜の帝国』の皇室紋章が刻まれた杖が握られていた。
彼の名は、ハドリアヌス・フォン・ノクス。
常夜の帝国の、冷酷無比と恐れられる第二皇子であり、魔王の血を引くと噂される男。
「随分と手酷い扱いを受けていたようだな、アウレリア公爵令嬢。いや、元、と言うべきか」
ハドリアヌスは、低く、心地よく響く声で私に微笑みかけた。その瞳には、私を蔑む色は微塵もない。あるのは、極上の宝物を見つけたかのような、深い執着と歓喜の光だ。
「……私をお迎えに? ハドリアヌス殿下」
「当然だ。我が国は、お前のような真の価値を持つ者を、暗闇の中で泥を啜らせるような真似はしない。お前がその身に宿す瘴気、我が国にとっては至高の『魔力の源泉』に他ならないのだからな」
ハドリアヌスは私に向かって、白手袋に包まれた手を差し伸べた。
「さあ、行こう、アウレリア。我が常夜の国へ。お前を虐げたあの光の国が、これからどのように黒く塗り潰されていくか……特等席で見物させてやろう」
私はその手を見つめ、そして、もう一度だけ振り返って、背後の美しい白亜の城を見上げた。
すでに、城の最下層から、微かな地鳴りが響き始めている。
遠くで、最初の悲鳴が上がったような気がした。
聖女クラウディアの、あの鈴を転がすような声が、恐怖に歪んでいくのは、きっと数日もかからないだろう。
ルシウス殿下、あなたが私の価値に気づき、血の涙を流して許しを乞うその時を、私は心から楽しみにしています。
「ええ、喜んで。ハドリアヌス殿下」
私は彼の、冷たくも力強い手を取り、漆黒の馬車へと乗り込んだ。
扉が閉まり、馬車は滑るようにして、崩壊へと向かう帝国を後にした。




