焚き火の向こうには
今日は終業式。
HRも終わり、教室は一気にざわめきに包まれる。
椅子を引く音、笑い声、机を叩く音。
あちこちで「じゃあな」「またな」が飛び交っている。
健は机の中を空にし、教科書の抜けた軽さに少しだけ肩の力を抜く。
(やっと終わった…)
教室を出ると、いつもの2人が廊下の壁にもたれて待っていた。
「このあと暇?」
「うん」
「昼飯食べにどっか寄ろ」
「いいよ」
窓の外からは、強い日差しが差し込んでいる。
白く反射した光が廊下の床に揺れていた。
「どこいく?」
「聡一郎の塾までゆっくりできるとこ」
「じゃあファミレスは?」
「いいね、塾も近いし」
校舎を抜け、駐輪場へ向かう。
むわっとした熱気が一気に押し寄せた。
自転車にまたがり、ペダルを踏み出す。
風を切って走っても、涼しさよりも熱がまとわりつく。
ファミレスに着いた頃には、3人ともすっかり汗だくで、制服の布が肌にまとわりついた。
自動ドアが開いた瞬間、ひんやりとした空気が全身を包み込む。
「うはー!涼しい!」
「生き返る…」
一気に力が抜ける。
案内されたテーブル席に座ると、椅子の冷たさが心地いい。
健はリュックの前ポケットに手を突っ込む。
「ボディシート使う?」
「使う使う!」
「1枚ちょうだい」
袋を開けると、メントールの匂いがふわっと広がる。
首筋、腕、額。
汗を拭った瞬間、ひやりとした冷たさが肌を走った。
「ひえ〜!さっぱりする」
「拭くと冷たいねこれ」
さっきまでの不快な汗が、一気に引いていく。
ようやく落ち着いたところで、3人はメニュー表を手に取った。
「腹減った…何食う?」
「ランチ安いね〜」
「俺、ハンバーグランチ」
「じゃあ俺も」
「俺もー!」
「なんでまねすんの」
「1番うまそう」
「何でもいい」
雑な返事に、聡一郎は小さく息を吐いて笑う。
「まあ、いいけど」
「じゃあタッチパネルで注文しちゃうね!ドリンクバーつける?」
「「つける」」
「オッケー!」
タッチパネルの画面を軽く叩く音が、静かなテーブルに響く。
「ドリンク取ってこよ」
「俺、荷物見てる」
「なんか飲み物持ってこようか?」
「じゃあ、メロンソーダ」
「おっけ!健、行こ」
ドリンクバーは空いていて、機械の低い音だけが響いている。
コップに注がれる炭酸が、しゅわしゅわと泡を立てる。
冷たいグラスを持つだけで、指先が少しひんやりした。
「はい、聡一郎」
「ありがとう」
メロンソーダの鮮やかな緑が、光を受けてきらりと揺れる。
「はー、うま」
「熱い日は炭酸に限る」
喉を通る冷たさに、思わず肩の力が抜ける。
「明日から夏休みだね、何する?」
「俺は模試あるから前半は遊べない」
「じゃあ聡一郎の模試終わったら、3人で遊ぼ」
「ありがとう」
聡一郎は少しだけ柔らかく笑う。
翔太は椅子に身体を預け、両手を頭の後ろで組んだ。
「来年は受験かー」
「そうだね」
「遊べないかもね」
「じゃあ、俺らの夏は今年が最後ってこと?」
その一言で、空気がふっと沈む。
「ええー、なんか寂しい…」
健がストローをくわえたまま、少しだけ視線を落とす。
“いつも通り”が、ずっと続くと思っていた。
少しの間。
誰も言葉を続けない。
翔太が身体を前に乗り出す。
「じゃあさ」
顔を上げたとき、その目は少しだけ強く光っていた。
「思い出作りに、3人でキャンプ行かない?」
一瞬、時間が止まる。
「キャンプ?」
健が聞き返す。
「俺キャンプしたことない」
「俺も」
「マジで?じゃあなおさら行こうぜ!」
声に、少しだけ熱が乗る。
「うちの親、キャンプ好きでさ。よく連れてかれるんだけど——」
言いながらスマホを取り出す。
画面を操作して、2人の間に差し出した。
「こんな感じ!」
そこには、焚き火を囲んで笑う家族の写真。
川で水をかけあっている写真。
テントの前で、夕焼けを背に並んでいる写真。
どれも、やけに楽しそうだった。
「へえ、めっちゃ楽しそう」
健が少し身を乗り出す。
「準備大変そう」
聡一郎は現実的な視点を挟む。
「道具は全部うちにあるし、やり方も俺わかるから!」
その言葉に、少しだけ安心が混じる。
「それは頼もしい」
「金は?どんくらいかかんの?」
「食材用意したら当日1人2000円くらい!念のため5000円あれば余裕!」
「いいね、そんな高くないし」
「……悪くないかもな」
その一言で、空気が一気に動く。
「じゃあ決まりな!」
翔太が嬉しそうに笑う。
「親に送迎頼んでみるわ」
画面に指を走らせる動きが、どこか弾んでいる。
「どうせなら1泊しようよ。親の同意書いるけど」
「帰ったら聞いてみる」
「俺も」
「あとで連絡してな!」
さっきまで少し沈んでいた空気は、もうない。
まだ来ていないはずの夏が、もうすぐそこまで来ている気がした。
〜♪
軽快な音楽を流しながら、配膳ロボットがテーブル横に並ぶ。
『お料理をお持ちしました』
「ハンバーグランチうまそ!」
「はい、聡一郎」
「ありがとう」
3人は料理を取り出し、ボタンを押す。
ロボットは音楽を鳴らしながら去っていった。
「食べよ食べよ」
「「「いただきます」」」
ーーーー・・・
健はカーテンを開け、外を見る。
空は雲ひとつない晴天で、夏の暑さを感じる。
(1時に近くのコンビニに集合だったはず)
健は念のためグループラインを開く。
メッセージ画面をスクロールしていくと、通知音が鳴る。
聡一郎からだった。
『ごめん、俺熱出た』
(え、マジ?)
『大丈夫?』
『38度くらい。今日のキャンプ無理そう』
『そっか…残念…』
(キャンプどうなるんだろう)
翔太のメッセージが映る。
『聡一郎大丈夫!?体調不良はしゃーない!』
『でも予約入れたからキャンセル料かかるかも』
『いくら?』
『多分6000円』
(6000円は痛い…)
『2人で行ってこい』
(え…聡一郎…)
『なんか気が引けるわ』
『俺のことは気にするな。熱出たのは俺のせい』
『健どうする?行く?』
(どうすっかな…)
(でもなー、すげえ楽しみにしてたし…お金ももったいないし…)
健はスマホを操作する。
『行く!』
『じゃ、コンビニに1時集合で』
『楽しんでこい、俺は寝る』
『聡一郎お大事に』
『また今度行こうな!』
健はスマホ画面を閉じる。
(顔洗って準備しよ)
健は部屋を出た。
ーーーー・・・
コンビニに着くと、駐車している車の窓が下がり、翔太が手を振る。
「健乗ってー!」
「はーい」
健は後部座席のドアを開ける。
「こんにちは」
「健くん久しぶり。大きくなったね」
運転席には翔太の父親が乗っていた。
健は後部座席に座ると、荷物を太ももの上に置く。
「よし、じゃあ行こうか」
車が動き出す。
排気音がして、その音に何故かわくわくする。
「健くんはキャンプ初めてなんだよね?」
「そうです」
「翔太が無理矢理連れてきてない?大丈夫?
」
「はあ!?違えし!」
翔太が父親を睨みつける。
「翔太のキャンプの写真見ていいなって思ったんで。めっちゃ楽しみにしてました」
「それならよかった」
翔太の父は安心したように笑う。
「翔太は小さい頃からキャンプしてるから、頼りになると思うよ」
「頼りにしてます」
「基本俺に任せて!」
翔太が助手席から顔を向ける。
「おう、よろしく!」
景色が住宅街から山へと変わっていく。
車のウィンカーの音がすると、駐車場に入っていった。
「着いたよ」
「おー」
初めてのキャンプ場に目を瞬かせる。
車を降りた瞬間、空気の匂いが違うことに気づいた。
土と草の湿った匂い。
どこか冷たくて、でも嫌じゃない。
むしろ胸の奥まで澄んでいくような感覚だった。
「すげー…ここがキャンプ場…」
「いいよね、ここ。よく来るんだ」
荷物を降ろしながら、翔太が健に声をかける。
健が想像していたより、荷物は少なかった。
「じゃ、高校生2人組。がんばってねー」
「ありがとうございました」
「明日10時頃に迎えに行くから」
翔太の父は運転席から手を振ると、駐車場を出ていく。
車が見えなくなると、地面に置いた荷物を手分けして持つ。
「受付いこっか」
「うん」
健は翔太の後をついていく。
少し先に管理棟と書かれている小さな建物が見えた。
「こんにちは」
「受付ですか?」
「はい、2時に予約してた高橋です」
(慣れてんだな)
いつもと違う真剣な表情。
大きな背中が頼もしく感じる。
「ありがとうございます」
翔太は薪を片手に歩いてくる。
「人数変更いけたわ」
「よかった。いくら渡せばいい?」
「1人2500円」
「了解」
「荷物置いてからでいいよ。行こう」
地面に置いた荷物を背負い直す。
クーラーバッグがずしりと重い。
(食材3人分…食えるかなあ…)
一抹の不安と期待を胸に歩き出す。
少し歩くと開けた場所が見えてくる。
「着いた。ここがテント張る場所だよ」
「おおー!」
草と土の匂いがする。
少し奥に進むと、いくつかのテントが見えた。
「健ー!ここにテント張ろ!」
周りをゆっくり眺めていると、いつのまにか翔太と離れていた。
健は駆け足で翔太に追いつく。
「ここ日陰になってるから涼しいよ」
「ほんとだ」
「トイレと炊事場も近いし、最高の立地!」
「翔太、最高!」
「えっへん!」
いつもの調子に健は笑いだす。
「じゃあまずはテント張ろっか」
地面に置いた荷物の中からテントを持ち出す。
翔太はテントの袋を開けると、折りたたまれた布に手を触れる。
「はい、これ」
「おう」
健は翔太からポールを受け取る。
「こんな感じで差し込んでいって」
「わかった」
少し戸惑いながらも、ポールを一本ずつ取り出し、空に向かって差し込む。
パキッ
骨組みが折れる音に、思わず笑みがこぼれる。
「楽しい、これ」
「お上手」
組み立てるたびにテントの形が見えてくる。
最後のペグを地面に打ち込むと、テントがしっかり立ち上がる。
「これで完成!」
「おおー立派」
「中に入ってみてもいい?」
「いいよ」
靴を脱いで、足先で地面の柔らかさを確かめる。
土や砂利の感触よりも、少しふかふかしていて安心する。
壁に手をつくと、薄い布の冷たさが指先に伝わる。
「どう?」
翔太がしゃがんで、覗き込む。
「秘密基地みたい」
「中学生かよ、わかるけど」
翔太は面白そうに笑う。
「次、手伝うことある?」
「テントの中で荷物整理しよ」
「はーい」
2人はテントの中に座り込み、バッグを開ける。
「これ寝袋?初めて見た」
「意外と快適よ」
初めてのことだらけで自然と笑みが浮かぶ。
「こんな感じかな」
翔太はテント内を見渡す。
「荷物の整理も終わったし、トイレと炊事場、見に行こうか」
「はーい」
テントを出て小道を進むと、木々の間から小さな建物が見えてくる。
中は思ったよりも明るく清潔で、ちょっと安心する。
「意外と綺麗」
「外のトイレ綺麗だとテンションあがるよな」
「それ、大事」
炊事場へ向かう。
水道の蛇口やシンクが並んでいて、たくさんのキャンパーが使えるようになっている。
「ここで料理するんだ」
「今回は使わないけどね。道具洗うくらいかな」
「へえ」
歩きながら、翔太とちらっと目が合う。
初めてのキャンプ。
ここに来てから新しいことばかりで健は心がはずむ。
テントに戻ると、翔太がリュックの中を漁る。
「健、水着持ってきた?」
「もちろん。なんなら今履いてる」
「やる気満々じゃん」
2人はタオルを片手に小道を歩く。
「シャワー代わりに川遊びって最高」
「今日暑いし、気持ちいいだろうな」
少し進むと木々の隙間から差し込む光が、水面でキラキラと踊っている。
足元に冷たい川の水が流れ始める。
恐る恐る足を浸す。
「冷たっ!」
「気持ちいい〜」
水は思ったより冷たくて、でも痛いほどではない。
足先に触れる小石の感触に笑いがこぼれる。
「おらっ!」
「うわっ!」
翔太がニヤリと笑う。
健も負けじと水を蹴る。
川の流れに沿って手を滑らせ、石を拾ったり、水をはじいて遊んだりするうちに、時間の感覚がふっと消える。
2人の笑い声が森の中に響き渡り、風や水の音と混じり合う。
「おわっ!」
健は少し流れの速い場所で足を取られ、ぐらりと体勢を崩す。
冷たい水が跳ね、川の中に倒れ込む。
「健!大丈夫?」
翔太が反射的に手を伸ばす。
その手を、健は迷いなく掴んだ。
強く、引く。
「っ、わ――」
予想外の力に、翔太の体が前へ引き寄せられる。
バランスを崩したまま、そのまま健の上に倒れ込んだ。
ばしゃ、と水音が弾ける。
一瞬。
鳥の鳴き声と、葉の擦れる音だけが残る。
濡れた服越しに伝わる体温。
滑るような肌の感触。
目と目が、合う。
水に濡れた髪が頬に張り付き、滴がぽたりと落ちる。
濡れた睫毛の奥の視線。
無防備な表情。
全部が、まっすぐ突き刺さってくる。
逸らさなきゃいけないのに、目が離せない。
「翔太?」
「……あ、悪い!」
我に返ったように、慌てて体を起こす。
水を弾く音と一緒に、距離が一気に離れた。
背を向ける。
鼓動が、うるさい。
健が動くたび、水をかき分ける音が耳に届く。
「どうした?」
振り返った瞬間、また視界に入る顔。
翔太は思わず顔を手で覆った。
「鼻に水入った…」
「うわ、痛いやつ!ごめん!」
「大丈夫、ちょっと休むわ」
「わかった!俺あっちで魚いないか見てるねー!」
何も知らないまま、健は水を蹴るようにして離れていく。
さっきまで触れていた温度が、まだ残っている気がする。
翔太は川岸に上がり、大きな石に腰を下ろした。
「はぁ……」
息を吐く。
それでも、鼓動は全然収まらない。
さっきの距離。
触れた感触。
全部が、まだ身体の中に残っている。
「……落ち着け」
額に手を当てる。
熱が引かない。
「俺…今日、大丈夫かな」
呟いた声は、どこか弱々しくて。
見上げた空はやけに青く、何も知らないみたいに広がっている。
遠くから、弾んだ声が飛んできた。
「魚いたー!」
その無邪気さに、思わず口元が緩む。
「……はは」
小さく笑って、膝に手をつく。
まだ少し残る熱を抱えたまま、翔太はゆっくりと立ち上がった。
ーーーー・・・
「健、そろそろ飯食わない?」
「いいね、ご飯にしよ」
川から上がると、2人はタオルで頭や身体を拭く。
「めっちゃ楽しかったー!」
「最高」
来た道を戻っていく。
濡れた水着が体に張りつき、歩くたびにわずかに重さを感じる。
「テントにタオル敷くから、中で着替えよ」
「先にどうぞ」
「じゃ、遠慮なく」
翔太がテントの中に姿を消す。
「…寒くなってきた」
風が通るたびに身体が冷えていく。
健は頭に乗せていたタオルを肩から掛け、そのまま背中を覆って腕に絡める。
着替えを終えた翔太がテントから顔を覗かせる。
「あ、寒い?今出るわ」
「大丈夫…」
健はテントに入ると、冷たい水着を急いで脱ぐ。
身体をタオルでしっかりと拭き終えると、乾いた服に着替える。
テントから出ると、翔太がしゃがみ込んで何やら手を動かしている。
「何それ?」
「バーベキューコンロ」
「へえ」
「今火起こすから、ちょっと待ってね」
折りたたまれた金属を広げると、カチャリと軽い音がして形になる。
炭を並べ、着火剤に火をつける。
最初は頼りない小さな炎だったのに、少しずつ炭に移って、じわじわと赤く色づいていく。
ほんのりとした暖かさに身体が吸い寄せられていく。
「あー、あったかい」
「山はね、寒くなるの早いんよ」
黒い炭の中で赤く光る炎を見つめる。
「なんか…いいな」
「焚き火はもっとすごいよ」
2人はコンロの前にしゃがみ込み、両手をかざす。
じんわりとした熱が、指先からゆっくり広がっていくのがわかる。
「そろそろ焼きますか」
「いえーい!焼肉焼肉!俺椅子用意するね」
翔太はコンロに油を塗った網を乗せる。
クーラーバッグから肉を取り出し、網の上に並べていく。
「はい、椅子」
「ありがとう」
折りたたみのアウトドアチェアに腰を下ろす。
徐々に香ばしい匂いが辺りに広がる。
健は待ちきれずに覗き込んで、頬を緩ませる。
「テーブル敷いちゃうね」
「おう」
折りたたみテーブルを敷き、健は椅子に身体を預けた。
「こういう椅子、意外と座り心地いいんだね」
「いいよね、俺のお気に入り」
翔太が肉をひっくり返す。
表面にこんがりと焼き色が広がる。
「まだかなー」
「あともう少し」
健のお腹が寂しそうに鳴く。
テーブルからお茶を取り、空腹をごまかす。
「もういい感じじゃない?」
「うん、いけるっしょ」
焼き上がった肉を皿に乗せる。
2人は箸でつまんだ肉に息を吹きかける。
一口。
思わず顔がほころぶ。
「うま…」
「うますぎ…」
口を動かしながら空いている網に、次々と肉を乗せていく。
「翔太、肉以外も乗せていい?」
「いいよ」
健はクーラーバッグから袋に入った野菜を取り出し、網に並べていく。
「家で切ってくると楽だね」
「ピーマンとかぼちゃじゃん!いいね〜」
網に乗せられた肉と野菜を眺める。
「なんで外で食う飯はこうも美味いのか」
「それなー」
健は軽く焦げたかぼちゃをつまむ。
ほんのり苦くて優しい甘さが口の中に広がる。
「かぼちゃ美味しい?」
「はい、あーん」
手が離せない翔太の口に、かぼちゃを運ぶ。
翔太は口を開けると、一口で食べた。
「んまー!」
「ねー」
3人分の食材はどんどん減っていく。
肉が無くなる頃には、2人のお腹も十分満たされていた。
「一旦休憩!」
翔太はテーブルにトングを置き、椅子から立ち上がる。
空はゆっくりと青を手放し、代わりに淡い橙と紫が混ざり始めていた。
「暗くなる前に焚き火作るわ」
「おー!焚き火!」
健は翔太の言葉に目を輝かせ、小さく手を鳴らす。
翔太は焚き火台をコンロから少し離れたところに置く。
乾いた枝を組み、隙間に火を差し込むと、最初は頼りない炎が揺れた。
「ちっちゃい火」
健が焚き火台の横にしゃがみ込む。
ぱち、と小さな音が弾ける。
「ゆっくり大きくなっていくよ」
「へえ、最初からたくさん燃えないんだ」
細い枝から太い薪へ。
赤くなった部分がじわじわと増えて、やがて安定した炎へと変わる。
さっきまで見えていた景色は影に溶けて、代わりに火の揺らぎだけが、2人の顔を照らしていた。
「あったかいコーヒーでも飲む?」
「え?飲めるの?」
「じゃあ、作るね」
翔太は、ケトルを手に炊事場へ歩いていく。
健は背中を見届けると、焚き火の炎に視線を戻す。
火に手をかざすと、じんわりとした温もりが伝わってくる。
「健、椅子座る?」
「うん」
「焚き火、気に入った?」
「ずっと見ていられる」
火はただ燃えているだけなのに、何故か目が離せなかった。
「上も見てみたら?」
翔太の言葉に目線を上にあげる。
ふと顔を上げた瞬間、言葉を失った。
空一面に、無数の星が広がっていた。
黒というより、深い紺色の中に、細かい光がびっしりと散りばめられている。
「すご…」
「今日晴れてて良かった」
隣を見ると、翔太が同じように空を見上げている。
何も言わないまま、ただ並んで星を見ている時間が、やけに心地いい。
「はい、コーヒー」
「さんきゅ」
健は両手でそっと受け取ると、小さく口をつける。
熱いコーヒーが喉を通り過ぎていく。
「うまぁ…」
「インスタントだけどね」
翔太も椅子に腰を掛けて、マグカップに口をつける。
「翔太って、流れ星見たことある?」
「何回もある」
「え!?マジで!?」
「そんな珍しいもんでもないよ」
「そうなんだ…」
家の窓から星を見上げたことはあるだろうか。
いつも手元ばかりで、感心は無かった。
でも、今日この時から空への意識が変わった気がする。
「今日…流れ星見たいなぁ」
「見れたらいいね」
焚き火の赤い炎が2人をオレンジ色に照らす。
「焼きマシュマロやる?」
「あ、忘れてた」
健はわずかに目を見開く。
少し間抜けな姿に翔太は思わず笑ってしまう。
「串とマシュマロ取ってくる」
「俺、ビスケットと板チョコも持ってきた!」
「スモアじゃーん!やろやろ」
「いえーい!デザートデザート!」
二人は同時に椅子から腰を上げる。
夜の空気はひんやりとしていて、さっきまでの体温をやさしく冷ましていく。
何気ない一言に、どちらともなく笑い声がこぼれた。
ほんの一瞬。
その背中を追うように、夜空に、細い光がすっと走った。
ーーーー・・・
健は思わず口元を押さえてくしゃみをする。
「寒い?」
「ちょっと寒いかも…」
腕をさすると、続けてあくびが出る。
目尻に少し涙が溜まった。
「そろそろ寝よっか」
「うん…」
翔太はランタンを健に手渡す。
「ちょっと持ってて」
翔太は水の入ったバケツをコンロに残った炭と今も燃え続ける焚き火に少しずつかけていく。
「ジュッ」と鈍い音がして、白い煙が立ち上った。
焚き火の炎が消えた途端に、ランタンの柔らかい光が2人を照らす。
テントに入り、天井にランタンを吊るす。
柔らかい光が全体に広がった。
健は寝袋に潜り込み、肩をすくめ、身体を縮こませる。
昼間の疲労感が心地よい眠気を誘うが、ちょっとした寒さが邪魔をする。
「もしかして寒い?」
「うん、ちょっと…」
「ごめん、うちの家族みんな暑がりで…毛布とか持ってきてないわ」
翔太は申し訳なさそうに、眉を下げる。
「寝袋繋げる?少しはあったかくなるかも」
「お願いします…」
テントの中で、二つの寝袋を向かい合わせに広げる。
ファスナーを慎重に合わせ、カチリと音を立てて繋ぐと、シングルだった寝袋がゆったりとしたひとつの空間に変わった。
2人は寝袋に入ると、向かい合う。
翔太の体温を布越しに感じる。
寒さは少し和らいだものの、隙間から冷たい空気が入り込み、身体を震わせる。
「翔太…」
「どした?」
「…そっち、行っていい?」
「…え?」
翔太は耳を疑った。
「…いい?」
弱々しく、か細い声。
健はじっと翔太を見つめる。
「…いいよ」
翔太が横向きに左肘をついて、右手で布を少し持ち上げる。
「どうぞ」
健の目に光が戻る。
寝袋の中をもぞもぞと移動すると、翔太の身体に腕を回す。
身体を引き寄せると、冷たかった頬が徐々に暖かくなる。
「…あったかい」
思わず顔を擦り寄せる。
「…ちょっと」
翔太の掠れた声が上から聞こえる。
「俺、教えたよね?」
健は視線を上に向ける。
こちらを見つめる翔太と目が合う。
自然と上目遣いになる健に、翔太の脈が早くなる。
「覚えてるよ」
視線を胸元に戻し、顔を埋める。
翔太の心臓の鼓動がトクトクと聞こえる。
健はその音が心地よくて、耳を傾ける。
「翔太は嫌なの?俺がくっつくの」
「…その聞き方はずるい」
見上げると、拗ねたような顔が見える。
「ふふふ、ははは」
「何笑ってんだよ」
翔太は胸の中にいる健の脇をくすぐった。
「ぎゃはは、やめて!」
健は我慢できず、寝袋の中で暴れ出す。
翔太は満足したのか、手を離し、元の体勢に戻る。
健は、何の迷いもなく距離を詰める。
そのまま腕を回した。
「おい…」
「翔太、今日はありがとう」
健の腕をどかそうと動かした手を止める。
「こんなはしゃいだの久しぶり…めっちゃ楽しかった」
「俺も」
互いに顔を見合わせる。
健が笑う。
「次は3人でキャンプしよ」
「そうだね」
健はモゾモゾと身体を動かす。
「翔太、俺寝るわ」
声が掠れている。
顔を見ると瞳は閉じる寸前だった。
「おう、おやすみ」
「おやすみ…」
健は翔太の身体に回していた腕を離す。
目を閉じると、すぐに意識を手放した。
翔太は、静かに健の顔を覗き込む。
規則的な寝息を立て、小さく体を丸めて眠るその姿に、胸の奥が静かに締めつけられる。
(可愛いすぎ…)
黒く柔らかい髪、なめらかな肌、長めのまつ毛、薄い唇。
健のすべてに愛しさを感じる。
ポコン
スマホの通知音にかすかに肩を揺らす。
翔太はスマホを手に取ると、トーク画面を開く。
聡一郎からだった。
『襲うなよ』
その一言だけ。
いつの日かの自分を思い出し、翔太は小さく笑う。
『がんばります』
返事はすぐにきた。
『健は?』
翔太は目を細めて、含みのある笑みを浮かべる。
スマホを操作し、カメラアプリを開く。
画面に自分と眠っている健が映ると白いボタンを押す。
すぐに聡一郎へ送信する。
既読はついたが、少し経ってから返事が来た。
『近すぎ』
翔太は口角を上げる。
『寒いんだって』
通知音が2回鳴る。
『風邪ひくなよ』
『寝る』
(お前がいうか)
左手の拳を口に添えて、小さく笑う。
『おやすみ』
翔太は画面を閉じると、ランタンを消す。
視界がすっと闇に沈む。
隣にいるはずなのに、姿は見えない。
ただ、気配だけが近くにある。
健にぶつからないように寝袋に潜る。
翔太は健に背を向けて横になった。
(今日…楽しかったな…)
心地よい疲れが瞼を重くする。
脳裏に浮かぶのは健の笑顔。
意識を手放す…その時だった。
(…!)
不意に、翔太の足の間に何かがするりと滑り込む。
反応する間もなく、胸元に腕が回される。
ぐっと力を込められて、身体が引き寄せられた。
「た、健…?」
思わず漏れた声が、狭いテントの中に小さく響く。
(寝てんの?)
耳元に、規則的な寝息がかかる。
温かい吐息が首筋に触れて、ぞくりと背筋が揺れた。
(マジか)
身体を少し動かしてみる。
健の腕は思った以上にしっかりと回されていて、ぴたりと密着してくる。
(嬉しいけど…嬉しいけど!)
胸の奥が、どくどくと騒ぎ出す。
「勘弁して…」
弱々しく漏れた呟きは、誰にも届かない。
静かなテントの中、やけに大きく感じる心臓の音だけが、自分の中で鳴り続けていた。
ーーーー・・・
まぶたの裏が、うっすらと明るい。
目を開けると、テントの内側がやわらかな橙色に染まっている。
外からは、小さな鳥の声。
翔太が隣にいる気配を感じながら、もう一度目を細める。
やがて小さく息を吐き、寝袋から腕を抜く。
外の空気が少し入り込んで、ひやりとした感触が肌をなぞった。
「…健?」
「あ、起こしちゃった?」
上半身を起こし、横になっている翔太の顔を覗きこむ。
ぼんやりとした目でこちらを見ている。
「……」
「おはよ!」
健の声にふっと焦点が合い、目の奥に確かな意識が戻る。
「おはよ」
翔太はゆっくりと身体を起こす。
「なあ、外出ていい?」
「いいよ、出よっか」
テントの入口に手をかける。
ファスナーを開けると、外の光が一気に流れ込んできた。
淡く澄んだ青の中に、朝の光が静かに広がっている。
一歩外に出ると、足元の草が朝露で濡れていた。
ひんやりとした空気が肺に入り込み、思わず深く息を吸う。
ただ朝を迎えただけなのに、それだけで満たされていく感覚があった。
「顔洗いに行こ」
「うん」
翔太と並んで炊事場に向かう。
炊事場で蛇口をひねると、冷たい水が勢いよく流れ出した。
両手で水をすくって顔にかけると、一気に眠気が吹き飛ぶ。
「冷たすぎる…」
「目ぇ覚めるわ〜」
タオルで顔を拭くと、歯磨きをし、テントに戻る。
「俺、火起こしてるね」
翔太は焚き火台の前にしゃがみ込む。
「じゃあ、俺は見てる」
「ふふ」
翔太は軽く笑うと、灰を片付け、小枝を組み、火を灯す。
無駄のないてきぱきとした動作に、健は無意識に呟く。
「かっこいい…」
「えへ、そう?」
翔太は嬉しそうにはにかむ。
「昨日からずっと思ってた」
「やーん、照れちゃう」
両頬に手を当てて、健に視線を向ける。
「こんな翔太見ちゃったら、みんな好きになると思う」
「ほんと?」
「うん、翔太の好きな人も」
翔太と健の視線が混じり合う。
細い煙が立ち上り、ぱち、と小さな音が弾ける。
「だからキャンプは3人だけにして」
翔太は少し目を見開き、少ししてふっと笑った。
「なにそれ〜応援してよ〜!」
「やだ」
健は拗ねたように視線を外す。
「ほら、朝ごはんでも食べよ」
焚き火の上にケトルを置く。
「カップラーメン取ってくる!」
「はーい」
翔太は健の背中を見送り、無言のまま、火を突く。
「はい、割り箸とラーメン」
「いえーい、朝からラーメン!」
「朝ラー最高!」
2人は椅子に座り、お湯が沸くのを待つ。
やがて、小さな音とともに湯気が立ち上はる。
「お湯沸いたー」
「ひゅー!」
カップにお湯を注ぐ。
冷えた朝の空気の中で、その温かさがやけに際立っていた。
三分待つ時間さえ、妙に長く感じる。
蓋を開けた瞬間、立ちのぼる匂いに思わず顔がほころんだ。
「…うま、なにこれ」
「外で食うカップラーメンの素晴らしさよ」
「これ、本当にいつものカップラーメン?」
「隠し味はキャンプ」
「キャンプ最高」
笑い声が響く。
ラーメンはすぐに空になった。
暖かい朝食に身体も心も温かくなる。
「まだお湯あるから、コーヒー飲もう」
「俺もー!」
翔太はマグカップにインスタントコーヒーを入れ、お湯を注ぐ。
「はい、コーヒー」
「ありがと」
2人は椅子に座って、マグカップに口をつける。
一口飲むと、健は空を見上げた。
太陽がのぼり、他のテントからも声が聞こえる。
「キャンプ終わっちゃうな…寂しい」
「また、一緒にキャンプしよ」
「うん、楽しみにしてる」
その言葉に、健は小さく笑った。
ーーーー・・・
片付けを終え、受付を済ませると、駐車場に翔太の父が車に乗って待っていた。
ドアを開けて、荷物を詰め込む。
車に乗り込み、ドアを閉めると、外の空気がすっと遮られた。
エンジンがかかり、景色がゆっくりと動き出す。
「健くん、キャンプどうだった?」
「めちゃくちゃ楽しかったです」
「それはよかった」
ふと振り返る。
さっきまでいたキャンプ場が、木々の向こうに小さくなっていく。
楽しかった時間が、少しずつ遠ざかっていくみたいで、胸の奥がじんわりと寂しくなった。
前を向くと、翔太も同じように窓の外を見ていた。
「ありがとうございました」
「いやいや。ご両親によろしくね」
「またキャンプ行こうな!」
「おう!」
遠ざかっていく車に手を振る。
タイヤの音が遠のいて、辺りにはまた静かな空気が戻ってきた。
家の玄関を開ける。
いつもの空気と迎える母の声に、パタパタと靴を脱ぐ音が耳に残った。




