第9話 老騎士の最後の証言
モーリッツは、騎士団宿舎の片隅で私を待っていた。
宿舎の一室は質素だった。木の寝台、古い書き物机、壁に立てかけた甲冑。甲冑は古いが手入れが行き届いている。金具の一つ一つが磨かれ、革紐は新しいものに替えられている。五十八年の人生を、その甲冑の手入れが物語っている。
モーリッツは椅子に座り、甲冑の胸当てを布で拭いていた。背は曲がっていない。白髪交じりの短髪、深い皺の刻まれた顔。老いても、騎士は騎士だ。
「来てくれたか。テレーゼ殿」
モーリッツが剣の柄に手を置いた。使い込まれた革の柄が、彼の掌の形に馴染んでいる。
「コンラートのことだな。あいつの任務の真相を、あんたに話しておきたい」
「……お願いします」
モーリッツは窓の外を見た。中庭の向こうに、騎士団の訓練場が見える。若い騎士たちが素振りをしている。夕日が長い影を落としていた。
「十年前、コンラートに極秘任務を発令したのは、俺だ」
私は息を呑んだ。掌に爪が食い込んだ。
「正確に言えば、発令書に俺の名を使ったのはドレッサー伯爵だ。伯爵が書類を作り、俺に署名させた。だが、俺は止められなかった。当時、俺は伯爵に弱みを握られていた。若い頃の不始末——詳しくは言えんが、それを盾にされて、発令書に署名させられた」
モーリッツの手が、剣の柄を強く握った。関節が白くなるほど。
「つまり、極秘任務そのものが——」
「最初から存在しない。コンラートは任務と称して隣国に渡り、伯爵の香料取引の現地管理をしていただけだ。俺はそれを知りながら黙っていた。十年間。騎士の誓いに背いて、十年間、黙っていた」
モーリッツの声が震えた。剣の柄を握る手に、力が入っている。それでも背筋は伸びたままだ。崩れない姿勢は、体に染みついた騎士の矜持だろう。
「オーレリア殿が亡くなったと聞いた。あの方は正しい人だった。俺が何も言わない間にも、独りで記録を取り続けていた。俺が一言証言していれば、あの方は死なずに済んだかもしれん」
「モーリッツ殿。過去は変えられません。でも、あなたが今こうして話してくれている。それが大事です」
「……甘いことを言ってくれるな。俺は共犯者だ。沈黙は加担と同じだ。騎士がそれを言い訳にするのは、剣を錆びさせるのと同じことだ」
モーリッツは立ち上がり、壁の甲冑に手を触れた。胸当ての紋章を、指でなぞる。
「聴聞会で証言する。全てを話す。発令書の偽造のこと、伯爵の脅迫のこと、コンラートの任務が虚偽であること。俺の名が発令書にある以上、俺自身も罰を受ける。それは覚悟の上だ。——それが、俺にできる最後のことだ」
「最後、なんて——」
「テレーゼ殿。俺はもう長くない。胸の奥が、もう半年以上痛んでいる。医師には診せていない。知りたくなかったからな。知ってしまったら、証言する前に倒れるかもしれん。だから知らないまま、やるべきことを先にやる」
モーリッツが笑った。老いた騎士の笑顔は、どこか清々しかった。重荷を下ろす決意をした人間の表情だ。長い間背負っていた石を、ようやく地面に置く瞬間の軽さがある。
「だが、このまま逝くわけにはいかん。嘘を抱えたまま死ぬのは——騎士の死に方じゃない。甲冑が錆びるのは放っておけるが、誇りが錆びるのだけは耐えられん」
私は頭を下げた。深く。この人の覚悟に、言葉で報いることはできない。ただ、この証言を無駄にしないと、心の中で誓うことしか。
帰り際、モーリッツが最後にこう言った。
「テレーゼ殿。あんたの師匠は、最後まで戦っていた。俺は逃げていた。同じ十年を過ごして、あんたたちは戦い、俺は逃げた。——もう逃げん」
窓の外では、訓練場の若い騎士たちがようやく素振りを終えていた。剣を鞘に収める金属音が、遠くから聞こえる。
モーリッツはその音に耳を傾けるように、少しだけ目を閉じた。騎士団の日常の音を、懐かしむように。
◇
翌朝——聴聞会の当日。
朝の光が、宿舎の窓から差し込んでいた。私は香術師の正装に着替えた。白い前掛けに、師匠の形見のカモミールの刺繍が入ったもの。
出発の準備をしていたとき、パスカルが走ってきた。
この子はいつも走っている。けれど今朝の走り方は違った。足が重い。顔が蒼白だった。そばかすが、いつもより濃く見える。
「テレーゼ先輩……! モーリッツ様が……」
「モーリッツ殿が、どうしたの」
「今朝、宿舎で亡くなっていたそうです。寝台の上で、眠るように……。——医師は、心臓だと」
足が止まった。
石畳の冷たさが、靴の底から伝わってくる。朝の光が、やけに白い。
昨日会ったばかりだ。あの清々しい笑顔を見たばかりだ。「聴聞会で証言する」と言ってくれたばかりだ。甲冑を磨きながら、騎士の矜持を語ってくれたばかりだ。「もう逃げん」と、背筋を伸ばして言ってくれたばかりだ。
あの甲冑は、今もあの部屋の壁に立てかけられているのだろうか。主人を失った甲冑は、誰が磨くのだろう。
心臓。
モーリッツ自身が「胸の奥が痛んでいる」と言っていた。本当に持病だった可能性もある。半年以上も痛みを抱えていた心臓が、証言の重圧に耐えきれなかったのかもしれない。
けれど——師匠の死を思い出す。「急性の心不全」「持病」。同じ言葉が繰り返されている。偶然が二度続くのを、香術師は信じない。
パスカルが泣いていた。声を上げずに、唇を噛んで。
私は泣かなかった。泣く暇はない。聴聞会は今日だ。
モーリッツの証言は失われた。だが、昨夜の会話の内容は、私の記憶に残っている。香術師は記録を残す生き物だ。師匠に叩き込まれた習慣が、今、私を助けている。
「パスカル。走って。サージュさんに伝えて。モーリッツ殿が亡くなったこと。そして——私が昨夜聞いた証言の内容を、宣誓書として提出する準備をしてほしい、と」
「で、でも——本人が亡くなった証言って、認められるんですか」
「わからない。でも、やるだけのことはやる。師匠もモーリッツ殿も、真実のために命を懸けた。それを無駄にしない」
パスカルが走り出した。今度は足が軽い。泣きながら走るこの子の背中に、私は心の中で「ありがとう」と言った。
空が白んでいく。朝の鳥が、宮廷の屋根の上で鳴いている。日常の音だ。けれど今日は、何もかもが違って聞こえる。
私は一人、石畳の上に立っていた。手が震えている。
——いや。
握り込んだ掌の中に、カモミールの花弁が一枚だけ残っていた。今朝、香料庫で摘んだもの。
師匠の形見みたいなものだ。
その薄い感触が、私を引き止めた。花弁は乾いていて、ほんのわずかに甘い匂いがする。師匠が育てた花の香りだ。
今日、聴聞会に立つ。香術師として、そして——師匠の弟子として。




