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極秘任務と称して十年間帰らなかった夫が 隣国で別の家庭を築いていました  作者: 渚月(なづき)


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第8話 白い花が散るとき

破り取られた伝票。証拠隠滅の手は、こちらの動きと同じ速さで動いている。


パスカルが持ってきた伝票の束を、香料庫の作業台に広げた。十年分の束のうち、直近三年分がほぼ完全に欠けている。残っているのは古い年度のもので、それでも要所が破り取られていた。丁寧にではなく、急いで引きちぎったような痕がある。


「パスカル、残っている伝票の内容を全て書き写して。日付と品目、署名の有無だけでいい。急いで」


「はい!」


パスカルが弾かれたように駆け出す。ポケットの乾燥ラベンダーを握る暇もなく。


ハインツの裏切りが露見した以上、もう香術局には来られないだろう。辞表も出さずに姿を消した。主任香術師の机は空になっていた。引き出しの中は綺麗に片付けられている。私物だけでなく、業務資料もすべて持ち出された形跡があった。


けれど、ハインツが持ち出した情報はまだ伯爵の手の中にある。こちらの調査状況は筒抜けだったのだ。今後は情報の管理を厳しくしなければならない。


ナターシャが証言を文書にまとめてくれた。丁寧な字で、隣国での暮らしを綴っている。


コンラートが定期的に香料の買い付けに出かけていたこと。「仕事だ」と言って二、三日留守にすることが月に数回あったこと。宮廷から使者が来ていたこと——その使者は常にドレッサー伯爵の家紋入りの封書を持っていたこと。封書を受け取ったコンラートの表情がいつも硬くなったこと。


日常の中に埋め込まれた嘘の断片を、ナターシャは一つずつ拾い上げていた。彼女自身も気づかなかった違和感を、今になって言葉にしている。


サージュはそれらを法務局の形式に整え、証拠の番号を振った。一つ一つに付箋を貼り、時系列に並べる。彼の机の上は色とりどりの付箋で埋まっていた。


「番号は通しで振ります。漏れがあると法廷で突かれる」


サージュの声は淡々としているが、手の動きは速い。一枚の書類を整えるのに三十秒とかからない。法務官の技術だ。私が香料を計量するように、この人は証拠を計量する。


サージュの仕事ぶりを見ていると、法という仕組みの力を感じる。証拠の一枚一枚が、彼の手で武器に変わっていく。私が香料から真実を読み取るように、この人は書類から嘘を暴く。


「ヴァーゲンさん。証拠は揃いつつありますが、一つだけ足りないものがある」


「何?」


「動機です。ドレッサー伯爵がなぜ、香料の不正流通を行う必要があったのか。伯爵家は香料利権を持っている。正規の流通でも十分な利益が出るはず。わざわざ不正に手を染める理由が見えない」


私は考えた。


師匠の手帖に記された品目を思い出す。消えた香料の中に、希少種が含まれていた。高山セージ、黄金カモミール——そして、銀蓮花。


銀蓮花は特殊な香料素材だ。高山地帯にのみ自生し、開花期は一年のうちわずか二週間。精製すれば極めて強い芳香を持ち、魔道具の触媒としても使われる。


だが、それだけではない。特定の精製方法——高温での蒸留を繰り返し、特殊な溶媒で抽出する——を経ると、人の意識に作用する成分が濃縮される。鎮静、暗示、記憶の混濁。禁制品に指定されているにもかかわらず、闇市場での需要は絶えない。権力者が密かに求める品だ。


「……銀蓮花」


「銀蓮花?」


「師匠の記録に含まれている希少香料の一つです。正規の香術では扱えない規制品目。精製方法によっては人の意識を操る作用がある。正規ルートでは売買できないからこそ、裏ルートでの価値は跳ね上がる」


「遠征名目で調達し、闇市場に流していた」


「ええ。銀蓮花の精製品は、闇市場では通常の香料の十倍以上の価値があります。伯爵にとって、極秘任務というカバーストーリーがあればこそ、大量の規制品を動かせた。合法的な利権だけでは手に入らない利益のために、非合法の流通路が必要だったんです」


サージュが真剣な目で私を見た。


「香術師の知識は、法廷で武器になりますね」


「師匠が教えてくれたことです。香料のことなら、どんな細かいことでも。——師匠がこの知識を私に残してくれたのは、こういう日のためだったのかもしれない」





聴聞会の前日、ドレッサー伯爵が私の元を訪ねてきた。


香料庫の門の前に、恰幅の良い紳士が立っている。高価な香水の匂いが鼻をつく。複数の香料を重ねた、豪奢な調合。こういう香水を使う人は、自分の体臭だけでなく、自分の本心も隠そうとする人だ。


笑顔だが、目は笑っていない。茶会で弱みを探るときと同じ表情だと聞いていた。今、それを間近で見ている。


「テレーゼ嬢。少し話をしよう」


「伯爵閣下。何のご用でしょうか」


「聴聞会のことだよ。——取り下げる気はないかね?」


穏やかな声。だが、その穏やかさの下に硬いものがある。鉄を絹で包んだような声だ。


「条件は悪くない。離縁は認めよう。ヴァーゲン家の財産の半分と、宮廷香術師の地位の保証。それに年金も上乗せする。悪い話ではないだろう?」


「師匠の死についてはどうなりますか」


伯爵の笑顔がわずかに固まった。顔の皮膚が、一瞬だけ硬直する。香水の匂いの下から、別の匂い——冷や汗の匂いが、かすかにした。


「オーレリアは老齢だった。持病もあったはずだ」


「師匠に持病はありませんでした。六十二年、一度も寝込んだことのない人です。私が十年間、師匠の健康状態を記録してきました。季節ごとの体調、食事の傾向、睡眠の質。香術師は自分の師匠の健康管理も仕事のうちです」


「……テレーゼ嬢。宮廷というのは、複雑な場所でね。全てを明るみにすることが、必ずしも正しいとは限らない。暗がりがあるから光が美しく見える。そういうものだ」


「正しいかどうかは私が決めることではありません。法がそれを決めます」


伯爵の目が細くなった。笑顔が消え、本来の表情が一瞬だけ顔に浮かんだ。冷たい、計算する目。この目が、師匠を殺す指示を出した目なのだろうか。


「……まあいい。聴聞会で会おう」


伯爵が去った後、私は門に手をついた。膝が笑っている。


怖くないわけがない。相手は宮廷の権力者だ。私は一介の香術師に過ぎない。爵位もなく、後ろ盾もなく、あるのは師匠の手帖と、サージュの付箋と、パスカルの足と、ナターシャの証言だけ。


けれど足元にカモミールの花が咲いていた。師匠が植えた株が、季節外れの花をつけている。白い花弁が夕日に透けて、金色に光っていた。


その夜、老騎士モーリッツから伝言が届いた。「話したいことがある」と。羊皮紙に書かれた短い文面だったが、筆圧が強い。迷いのない筆跡だ。


コンラートの元上官で、任務の実態を知る唯一の証人。


師匠の記録、ナターシャの証言、そしてモーリッツの証言。三つの柱が揃えば、法廷で伯爵を追い詰められる。


——明日、聴聞会の前に、彼に会いに行こう。


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