第7話 味方の仮面と敵の素顔
ハインツの裏切りが明らかになった翌日、私はエルヴィーラ王太子妃から呼び出しを受けた。
王太子妃の応接間は、宮廷の他のどの部屋とも違う空気がある。調度品は最高級だが飾り立てた華やかさはない。壁には一枚の絵もなく、窓辺に生花が一輪だけ。すべてが機能的で、無駄がない。この部屋の主が何を重んじているか、入った瞬間にわかる。
「テレーゼ・ヴァーゲン。座りなさい」
銀灰の髪の王太子妃は、紅茶を一口飲んでから口を開いた。白磁のカップを受け皿に戻す音が、静かな部屋に小さく響く。この人が判断を下す前の儀式だと、宮廷では知られている。紅茶を飲み終えたときには、もう結論が出ている。
「あなたの離縁の件とドレッサー伯爵の問題、把握しています。法務局のアンデール補佐官から報告がありました」
「……殿下」
「私は中立です。あなたの味方でも、伯爵の味方でもない。ただし、宮廷の秩序を乱す行為は許容しません。秩序とは、正しさのことではない。均衡のことです」
冷たい目が私を見る。美しい顔だが、そこに温かみはない。宮廷の均衡を計る天秤のような人だ。どちらにも傾かず、ただ重さだけを量る。
「単刀直入に聞きます。あなたはこの件を、どこまで明らかにするつもりですか」
「すべてを。師匠の死の真相、香料の不正流通、任務の虚偽——全部です」
「そうすれば宮廷は揺れます。英雄の嘘が暴かれれば、騎士団の信頼も揺らぐ。伯爵の利権が崩れれば、香料の供給にも影響が出る。宮廷の均衡が壊れる。それでも?」
「揺れるべきときに揺れなければ、いずれもっと大きく崩れます。膿を放置すれば周囲を侵す——香術師として、そう確信しています」
王太子妃の目がわずかに動いた。瞳の奥に、冷たい光とは別のものが一瞬だけ浮かんだ。興味だろうか。それとも、予想外の返答に対する評価だろうか。
「……あなた、面白いことを言うわね。膿の比喩を使う香術師は初めてよ」
「香術師だからこそ、わかることがあります。体の不調を放置すれば取り返しがつかなくなるように、組織の膿も早く出すほど傷は浅い」
王太子妃が立ち上がった。窓辺の花に視線を落とし、花弁を一枚だけ指で触れた。
「私は中立のまま、あなたの裁定の場を用意しましょう。法務局の正式な聴聞会を開く権限は、王太子の名で出せます。ただし、証拠が不十分であれば即座に却下する。情に流されることはありません」
「ありがとうございます」
「礼は不要よ。宮廷の秩序のためです。——ただし、聴聞会では私が裁定者を務めます。どちらにも偏らない判断をする。あなたにとって有利とは限りません。覚悟しておきなさい」
◇
応接間を出ると、廊下にナターシャがいた。
栗色の巻き毛の女性。コンラートの「任務先の妻」。彼女の腕には、幼い子どもが眠っている。子どもの頬は丸く、寝息が規則的で、母親の体温に安心しきっている。
ナターシャの顔は疲れていた。目の下に隈があり、唇が乾いている。異国の宮廷で、味方のいない女性の顔だった。
「あなたが……テレーゼさん?」
ナターシャの声は震えていた。目が赤い。泣いた後の目だ。
「はい」
「あの……私、何も知らなかったの。コンラートが……先にお嫁さんがいるなんて。信じてほしい。本当に、何も」
子どもの髪をそっと撫でる。何度も、何度も。不安なときの癖なのだろう。その仕草に、母親の本能的な愛情が見える。この人は嘘をついていない。香術師の目は、嘘と本音を見分ける訓練をしてきた。
「私、コンラートを問いただしたの。そうしたら、『テレーゼとはもう終わっている。形式上の婚姻が残っているだけだ』って。だから私は……自分が正式な妻だと思って……」
私は答えに詰まった。
この女性を憎むべきなのだろうか。宮廷の噂では「夫を奪った女」と囁かれているはずだ。けれど、ナターシャの目を見て気づいた。この目は、私と同じ目だ。嘘をつかれていた人間の目。裏切られたことを知った後の、世界が傾いたような目。
「ナターシャさん。あなたもコンラートに騙されていた」
「……え?」
「私との婚姻は一度も解消されていません。離縁の手続きは今、法務局で進めているところ。つまり、コンラートがあなたに言った『もう終わっている』は嘘です。あなたとの婚姻は、最初から——」
ナターシャの顔が青ざめた。子どもを抱く腕に力が入る。眠っていた子どもが、母親の動きに反応して小さく身じろぎした。
「私の……結婚が……無効?」
「法的にはそうなる可能性が高い。でも——あなたのお子さんに罪はない。そして、あなたにも罪はない」
ナターシャの目から涙がこぼれた。声を殺して泣いている。子どもを起こさないように。この人は強い人だ。自分の悲しみよりも、子どもの眠りを優先できる人だ。
「ごめんなさい……。私、あなたのことを冷たい人だと思ってた。コンラートがそう言ってたから。『テレーゼは仕事しか興味がない。家庭を顧みない女だ』って」
「冷たい人、か。まあ、香術師は冷静が仕事だから、あながち間違いでもないわ」
私が少しだけ笑うと、ナターシャも泣きながら笑った。涙の筋が頬に光っている。
「テレーゼさん。私に何かできることはある?」
「あるわ。コンラートが隣国で何をしていたか、あなたが知っていることを全部話してほしい。買い付けの頻度、訪問者の顔、届いた書簡の印——何でもいい」
ナターシャが頷いた。子どもの髪を撫でる手が、今度は落ち着いていた。
「全部話す。この子のために。この子が大きくなったとき、母親が正しいことをしたと胸を張れるように」
敵ではない。もう一人の被害者であり、これから味方になる人だ。
夜、法務局の執務室でサージュと打ち合わせをしていたとき、彼がぽつりと言った。
机の上の書類を整理しながら。付箋を貼る手は止めないまま。
「ヴァーゲンさん。私の姉は、五年前に亡くなりました」
「……突然ね」
「姉は宮廷の香術局に勤めていました。オーレリア先生の下で。——原因不明の急病で死んだことになっていますが、私はずっと疑っていました」
私の手が止まった。持っていた書類の端が、かすかに震えた。
「サージュさんのお姉さんも、師匠と同じ——」
「証拠はありません。当時の死亡診断書は『心不全』。毒物検査は行われていない。法務局に入ったのは、姉の死の真相を知りたかったからです。法の力がなければ、宮廷の闇には届かない。そう思いました」
サージュが眼鏡を外した。その目が、初めてはっきりと悲しみと怒りを湛えていた。眼鏡という薄い壁がなくなると、この人の感情がこんなにも鮮明に見える。
「私は法務官として、あなたを支援しています。けれど、個人的な理由もある。それを隠すのは不誠実だと思いました」
「それは公私混同じゃない。正義の動機は、いつだって個人的なものよ。師匠を失った私も、お姉さんを失ったあなたも——個人的な怒りが、この戦いの力になっている」
サージュが眼鏡をかけ直した。レンズの奥で、目の色が少しだけ柔らかくなっていた。
「……ありがとうございます」
翌日、パスカルが書庫から走ってきた。息を切らせて、そばかすの顔を紅潮させて。
「テレーゼ先輩! 伝票が見つかりました! でも——半分以上、破り取られてます! 誰かが証拠を隠滅してる!」




