第6話 届かなかった十年分の手紙
一晩中、眠れなかった。
寝台の上で天井を見つめていた。宿舎の天井は白い漆喰で、夜になると月の光が窓から差し込んで、淡い影を落とす。その影を数えているうちに夜が明けた。
ハインツの名前が、隣国の記録に残っていた。ドレッサー伯爵家の家令として。家令というのは貴族の家政を取り仕切る役職だ。香術局の主任香術師とは両立し得ない。二つの顔を持っていたということだ。
夫の裏切りとは種類が違う。夫は遠くにいた。物理的な距離があった。十年間会わなかったから、その間に起きたことを私が知らなくても不思議ではない。
けれどハインツは隣にいた。毎日顔を合わせ、茶を淹れ合い、香料の話をした。調合に失敗したときは励ましてくれ、師匠に叱られたときは慰めてくれた。その全てが、嘘だったのか。
それとも——嘘の中にも本心があったのか。そこが、一番わからない。
翌日の昼過ぎ、私はサージュの元を訪ねた。法務局の面会室で、隣国からの返信を見せた。
サージュは返信を二度読んだ。一度目はざっと。二度目はゆっくり、一語ずつ確かめるように。
「ハインツ・ブルク。香術局の主任香術師ですね」
「はい。私の先輩で、師匠——オーレリア先生の教え子でもあります」
サージュの表情は変わらない。けれど、付箋を貼る手がいつもより速かった。赤い付箋を三枚、立て続けに。三枚目を貼るとき、付箋の端がわずかにずれた。この人がそんなミスをするのは初めてだった。
「ヴァーゲンさん。ひとつ確認します。オーレリア先生が倒れた日、先生のお茶を淹れたのは誰ですか」
私の心臓が跳ねた。あの日から、ずっと頭の隅にあった疑問を、この人も同じように抱いていたのだ。
「……わかりません。でも、師匠の茶は毎日、香術局の当番が淹れる決まりです。当番表はハインツが管理しています」
「当番表は確認できますか」
「香術局の控室に保管されているはずです。ただし、ハインツが管理していた以上、改竄されている可能性もあります」
「調べましょう」
サージュが立ち上がった。椅子を引く動作に、いつもの正確さが少しだけ乱れている。この人の中にも、怒りがあるのだと知った。
「ヴァーゲンさん。もう一つ確認させてください。あなたが十年間コンラートに送った手紙——その手紙を、香術局の連絡便で出していましたか?」
「……はい。香術局には任務部隊への定期連絡便があります。月に二度、指定の宿場を経由して届ける仕組みです。私はそれに私信を託していました。封をして、宛名を書いて、連絡便の袋に入れて」
「連絡便の発送手続きは、誰が担当していましたか」
答えはわかっていた。わかっていたけれど、言葉にするのが怖かった。声にした瞬間に、もう戻れなくなる気がした。
「ハインツです。連絡便の発送は、主任香術師の管轄業務です」
沈黙が落ちた。面会室の窓から、夕日が差し込んでいる。サージュの机の上の付箋が、オレンジ色に染まっていた。
四十通以上の手紙。季節の変わり目ごとに、丁寧に便箋を選んで書いた。どの手紙にも、香術師らしい小さな工夫を添えた。香料の新しい発見を報告したり、宮廷の季節の移り変わりを伝えたり。
あの手紙たちは今、どこにあるのだろう。ハインツの引き出しに溜まっているのか。それとも——焼かれたのか。
「ヴァーゲンさん。あなたの手紙の写しは全て保管されていますね」
「はい。四十通以上あります。日付と内容の要約を控えてあります」
「それを証拠として提出します。発送記録と照らし合わせれば、手紙が意図的に止められていたことが証明できる。——連絡便には発送の受領印が残ります。受領印がなければ、そもそも便に預けられていなかったことになる」
「受領印……」
「はい。あなたが手紙をハインツに渡したとき、受領印はもらいましたか」
「いいえ。信頼していたから、手渡しで……」
「わかりました。受領印の不在は、むしろ証拠になります。本来必要な手続きを省略させていたこと自体が、意図的な工作の傍証です」
サージュは事務的に語っているが、その声にはわずかな熱がある。法の枠組みの中で、怒りを形にしている人の声だ。
◇
その日の夕方、私はハインツと対面した。
場所は香料庫。師匠の乾燥棚の前。私が選んだ場所だ。ここでなければならなかった。師匠が四十年間守り続けた場所で、真実を聞きたかった。
カモミールの乾燥した香りが鼻をくすぐる。棚には師匠が整理した香料の瓶が並んでいる。一つひとつにラベルが貼られ、師匠の丁寧な筆跡で品名と年月が記されている。
「テレーゼ、どうしたの? 急に呼び出して」
ハインツの笑顔はいつも通りだった。穏やかで、人を安心させる笑顔。目元が少しだけ下がっていて、それが優しさに見える。
「ハインツ。一つだけ聞いていい?」
「もちろん。何でも聞いてくれ」
「私がコンラートに送っていた手紙。あなたが連絡便で出してくれていたわよね」
「ああ、そうだね。毎回ちゃんと——」
「隣国の香術師に問い合わせたの。任務先とされる町に、王国正規軍の駐留記録はなかった。連絡便が届く先がなかったのよ。届け先のない手紙を、あなたはどこに出していたの」
ハインツの笑顔が、一瞬だけ止まった。唇の端がわずかに引きつる。その動きを、私は見逃さなかった。香術師の目で。
「それと、もう一つ。あなたの名前が、ドレッサー伯爵家の家令として記録に残っていた。隣国での香料買い付けの連名者として」
沈黙。
カモミールの花が、夕風に揺れている。香料庫の小さな窓から差し込む光が、ハインツの顔を半分だけ照らしていた。
「……バレたか」
ハインツの声から、穏やかさが消えた。別人のように冷たい声。十年間聞いてきた声とは、まるで違う響きだった。
「テレーゼ、悪いとは思ってたよ。本当に。でも、俺にも事情がある。伯爵家に逆らえる立場じゃないんだ。俺の実家は伯爵領の借地だ。逆らえば家族が路頭に迷う」
「師匠のお茶に毒を入れたのも、あなた?」
ハインツの目が揺れた。目の奥に、何か——罪悪感に似たものが見えた。
「……あれは俺じゃない。伯爵の指示で、別の人間がやった。俺はただ、手紙を止めて、香術局の情報を流していただけだ」
「『だけ』って言うのね」
私の声は平坦だった。怒りが一周して、凪いでいる。嵐の後の海のように、水面が静かになっている。
「ハインツ。あなたが流した情報で、師匠は殺された。あなたが師匠の調査状況を報告したから、伯爵は師匠を危険と判断した。私の手紙を止めたことで、私の十年は嘘になった。コンラートの嘘を維持するために、私の手紙が犠牲にされた。——それを『だけ』とは言わせない」
ハインツが目を逸らした。師匠の乾燥棚を見ている。この棚の前で、私たちは何度も一緒に作業をした。師匠の指導を受けながら、香料の選別をした。あの日々は嘘ではなかったはずだ。けれど——。
「……好きにしてくれ。でも、伯爵を相手にしても勝ち目はないぞ。あの人の力は宮廷の隅々まで——」
「それは私が決める」
ハインツが香料庫を出て行った。足音はいつも通り静かだった。振り返らなかった。
私は一人、乾燥棚に手をついた。膝が震えている。信じていた人の裏切りは、夫の裏切りとは別の場所が痛い。もっと深い場所。信じるという行為そのものが傷つく場所だ。
懐にある師匠の手帖の角が、肋骨に当たっている。その硬さが、現実を繋ぎ止めてくれる。
夕闇の中、香術局の建物の窓にひとつだけ灯りが見えた。サージュの執務室だ。
彼はまだ、私のために書類を整えているのだろう。付箋を貼り、条文を引き、証拠を並べて。言葉ではなく行動で、この人は私を支えている。
その灯りを見て、私は初めて——本当に初めて、一人ではないのだと思った。




