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極秘任務と称して十年間帰らなかった夫が 隣国で別の家庭を築いていました  作者: 渚月(なづき)
第1章

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第5話 英雄の勲章の裏側

香料庫の管理権移転。それは、私から師匠の記録への接触手段を奪うということだ。


手帖はすでに回収している。けれど、香料庫には他にも師匠が残した資料があるかもしれない。壁の隙間に隠されたもの、乾燥棚の裏板に挟み込まれたもの。師匠は用心深い人だった。一箇所にすべてを置かないだろう。


「パスカル、その公示はどこに出ている?」


「中庭の掲示板です。今日の夕刻付で——伯爵の署名入りです」


足が勝手に動いた。夜の回廊は暗い。松明の灯りが石壁に揺れている。パスカルが後ろからついてくる。この子の足音は、いつも少しだけ跳ねている。


中庭の掲示板には確かに、ドレッサー伯爵の署名入りの公示が貼られていた。『王宮香料庫の管理業務を、凱旋の功に報いる褒賞の一環として、ヴァーゲン騎士家に委託する』。日付は本日。朱色の蝋印が押されている。蝋の表面がまだ柔らかい。つい先刻、押されたものだ。


(師匠が亡くなって三日で、もう手を打ってきた)


速い。あまりに速い。


通常、王宮施設の管理権移転には、関係部署の合議と上奏が必要だ。少なくとも二週間はかかる手続きを、三日で公示まで持ってきた。事前に準備していなければ、この速度は不可能だ。


つまり——師匠の死の前から準備が進んでいたことを意味する。師匠が死ぬことを、誰かが知っていたか、あるいは計画していた。


「ヴァーゲンさん」


背後からサージュの声。法務局の執務時間はとうに過ぎているのに、彼はまだ宮廷にいた。暗い回廊に、彼の銀縁の眼鏡がかすかに光を拾っている。


「公示を見ました。手を打ちましょう」


「……打てるの?」


「香料庫の管理権移転には、香術局長の同意が必要です。王宮香術局設置令の第十二条に明記されている。『香料庫を含む局管轄施設の運用変更には、局長の書面による同意を要する』。現在、局長は空席。オーレリア先生の後任がまだ決まっていない」


サージュが公示の文面を指差した。長い指が、署名欄の一点を示す。暗がりの中でも、その指先は迷いなく正確な位置を指していた。


「この公示には伯爵の署名しかない。香術局長の同意署名が欠けています。手続き上の瑕疵がある」


「つまり、無効にできる?」


「異議申立てを行えば、局長後任が決まるまで凍結できます。——ただし、申立人は香術局の現職でなければならない」


私は宮廷香術師だ。条件は満たしている。


「やります」


サージュは頷き、鞄から書類を取り出した。すでに異議申立書の雛形が用意されている。日付と署名の欄だけが空白だった。


「……もう準備してあったの」


「公示の内容は予測できました。オーレリア先生が亡くなった時点で、香料庫の管理権が空白になる。それを利用する動きは当然想定されます」


サージュの声には感情がない。けれど、書類を準備していたという事実が、この人の感情そのものだと思った。言葉ではなく行動で示す人なのだ。


私は署名した。手は震えなかった。万年筆のインクが、紙の繊維に沁み込んでいく感触がした。


「サージュさん」


「はい」


「師匠が亡くなる前に、この公示の準備がされていた。それが何を意味するか、わかりますよね」


サージュは答えなかった。けれど、その沈黙が答えだった。付箋の赤が、暗がりの中でもはっきりと見えた。





異議申立ての翌日、私は香術師の連絡網を使って、任務先とされる隣国の町に問い合わせを送った。


香術師の連絡網は、各地の香術師が鳥便と宿場を使って情報を交換する仕組みだ。貴族の行政機構とは独立しており、香料の品質情報や疫病の発生報告などを共有する。どの国の権力者も介入できない、職人たちの独自の網。師匠が「香術師の唯一の特権」と呼んでいたものだ。


返事は三日で届いた。思ったより早い。隣国の香術師は協力的だった。「同胞の依頼は断らない」と添え書きがあった。封書には小さな乾燥花が一輪同封されていた。向こうの香術師の礼儀だろう。見知らぬ同業者の誠意が、胸に沁みた。


返信の内容は、こうだった。


『任務部隊への香料納入記録は存在しません。当地区に、王国正規軍の長期駐留記録もありません。ただし、ヴァーゲンの名で個人的に香料を買い付けた記録が複数あります。品目は主に希少香料——高山セージ、黄金カモミール、銀蓮花等。購入量は年間で相当な量に上ります。なお、買い付けには常に同じ連名者が記載されています』


私は返信を読みながら、手帖のオーレリア師匠の記録と突き合わせた。日付を並べ、品目を照合し、量を比較する。調合記録を照合するときと同じ作業だ。


合う。


師匠の手帖で「消えた二割」と記された香料の量と、隣国でコンラートが個人的に買い付けた量が、ほぼ一致する。誤差は一割以下。季節変動を考慮すれば、ほぼ完全に合致している。


構図が見えた。


ドレッサー伯爵が任務費として計上した香料を、コンラートが隣国で安く買い付け、差額を懐に入れていた。公的資金で仕入れ、私的に転売する。「英雄の極秘任務」という名目をかぶせた、十年がかりの横領だ。


「十年間、夫は商人をしていたのね」


怒りよりも先に、妙な感心が来た。十年もこの仕組みを維持できるのは、それなりの計画性がなければ無理だ。買い付けの時期を分散させ、品目を変え、取引先を複数に分ける。コンラートは騎士としては二流だったかもしれないが、商人としてはそれなりに有能だったのだろう。


けれど、計画的であればあるほど、私の十年は——意図的に踏みにじられたことになる。偶然の成り行きではなく、最初から計算の一部だった。忠実に待つ妻がいることが、英雄の物語を完成させるために必要な装置だった。


私自身が、嘘の共犯者にされていたのだ。知らないまま。「英雄の妻」として静かに待つ私がいることで、コンラートの不在は美談になった。宮廷は私を「健気な妻」と呼び、同情と敬意を向けてくれた。その全てが、嘘の舞台装置だった。


パスカルがポケットの乾燥ラベンダーを握りしめながら、私の横に立った。


「テレーゼ先輩、僕にできることありますか」


この子はいつも、こうやって聞いてくれる。要領は悪いけれど、誠実さだけは誰にも負けない。


「あるわ。香術局の書庫に、過去の任務部隊への納品伝票が保管されているはず。年度ごとに束ねてあるから、十年分を探して。ドレッサー伯爵の署名が入った伝票と、実際の出荷記録を照らし合わせてほしい」


「わかりました!」


パスカルが走り出す。回廊を曲がるとき、少しだけ足がもつれた。この子の素直さと足の速さが、今は本当にありがたい。


私は隣国からの返信をもう一度読んだ。最後の一行に目が止まる。


『なお、ヴァーゲン氏の購入記録に連名されている人物があります。ドレッサー伯爵家家令、ハインツ・ブルクの名前が記載されています』


ハインツ。


返信を持つ手が震えた。今度は、押さえられなかった。


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