第4話 宮廷の毒と香
師匠の手帖を開いたとき、十年分の嘘の輪郭が見えた。
オーレリア師匠が亡くなってから三日後、私は法務局のサージュの元を訪ねた。
面会室の扉を開けると、サージュはすでに机に書類を広げて待っていた。白いシャツの袖を丁寧に折り上げ、万年筆のインク瓶の横に白湯の杯が置いてある。飲みかけの白湯は冷めていた。ずっとここにいたのだろう。
私は師匠の手帖を差し出した。
サージュは眼鏡の位置を直してから、一ページずつゆっくりと読み始めた。途中で何度か頷き、要所に付箋を貼っていく。黄色、青、赤。前回の面会で見た色分けだ。黄色は事実、青は推測、赤は要検証——そういうことだろう。
十分ほど無言の時間が流れた。法務局の面会室は静かで、遠くで誰かの足音が廊下を通り過ぎる音だけが聞こえる。
「……これは重要な資料です」
「師匠が十年かけて記録したものです」
「香料の流通記録は、通常、香術局の公式文書として保管されます。この手帖は私的な記録ということですか」
「はい。師匠は公式記録との差異を個人的に追跡していたようです。公式記録だけでは見えない差分があると気づいて、独自に記録を取り始めた。十年前——ちょうどコンラートが任務に出た年からです」
サージュが顔を上げた。眼鏡の奥の目に、初めて明確な感情が浮かんでいた。静かな怒りに似た、けれどもっと冷たいもの。氷の下を流れる水のような感情だ。
「ヴァーゲンさん。この手帖が示していることを、整理しましょう」
彼は白い紙を取り出し、万年筆で図を描き始めた。線が正確で、文字が美しい。法務官の訓練だろうか。それとも、この人の生まれ持った性質なのか。
「ドレッサー伯爵家が管轄する香料の流通経路は、三つあります。一つ目は王室向け——宮廷で使われる香料。二つ目は市中の商会向け——一般への販売ルート。三つ目が任務部隊向け——遠征や極秘任務に使う香料の補給」
「そして三つ目が、任務費の名目で大量の香料を計上している」
「ええ。差分は約二割。単年で見れば誤差に見えるかもしれません。荷崩れや品質劣化による廃棄と説明すれば、通る範囲です。けれど十年分を合計すると、かなりの量になります。偶然で説明できる範囲を大きく超えている」
香料は多くの場合、乾燥させて保存する。乾燥香料は重量あたりの価値が高く、特に希少種は金貨に匹敵する。この世界でも、上質の香料は通貨と同等の価値を持つことがある。
王宮の晩餐会で使われる最高級の香料は、一握りで平民の一月分の給金に相当するものもある。それが十年分、二割ずつ消えていた。
「サージュさん。この二割の香料は、どこに消えたと思いますか」
「仮説としては二つ。横流しか、あるいは任務そのものが——」
サージュが言葉を切った。万年筆を机に置く。インク瓶の蓋をきちんと閉めてから、私の目を見た。
「——実態のないものだった可能性」
私たちの目が合った。
この人もまた、同じ結論に辿りついている。法務官の論理と、香術師の観察が、同じ地点を指している。
「サージュさん。もう一つ確認したいことがあります」
「何でしょう」
「師匠の死因です。私は香術師として、あの症状に不自然なものを感じています。あの日の師匠の容態は、トリカブトの中毒と一致していました。自然な経口摂取では起こりにくい症状の組み合わせです」
サージュが付箋を一枚、赤で貼った。
「医師の死亡診断書には『急性の心不全』とあります。毒物の検査は行われていません」
「なぜ?」
「検査を実施するには、上位管轄者の許可が必要です。香術局の上位管轄者は——」
「ドレッサー伯爵」
沈黙が降りた。
サージュが椅子の背にもたれた。この人がそうする姿を初めて見た。いつも姿勢の良い人が、一瞬だけ背中の力を抜いた。
「ヴァーゲンさん。この件は離縁の案件よりも、はるかに大きい。宮廷の利権構造と、殺人の疑いが絡んでいます。私の権限だけでは——」
「だから、もっと上の力が必要なのね」
「はい。王太子妃殿下に聴聞会の開催を上申する必要があります。それが唯一の道です」
◇
香術局に戻ると、ハインツが私の机に茶を置いていた。湯気の立つ、カモミールの茶。私が好きだと知っているから、いつもこれを淹れてくれる。
カップの持ち手に、小さな花柄の布が巻いてある。熱くないように、とハインツがいつもしてくれる心遣いだ。
「お疲れさま。法務局、長かったね」
「うん、ありがとう」
「オーレリア先生のこと、みんな悲しんでるよ。来週の追悼式の準備、香術局全体で進めてるんだけど、手伝おうか?」
「助かる。師匠の香料庫の管理も、当面は私が引き継ぐことになったの」
「大変だな。調合の依頼で急ぎのやつは俺が引き受けるから。王太子妃殿下の寝室用の清浄香の件、今週中に仕上げないといけないんだろう?」
「ええ。師匠が途中まで配合を組んでいたの。引き継ぎの資料を探してる」
「それなら、先生の机の引き出しに入ってるんじゃないか? 俺が見てきてやろうか」
ハインツの笑顔は相変わらず穏やかだ。この人がいるから、香術局はうまく回っている。
けれど——ふと気づいたことがある。
師匠が倒れた日、ハインツは香術局にいたはずだ。私が法務局から戻ったとき、彼は回廊で待っていた。すでに外出着を着て。つまり、師匠が倒れるよりも前に、外出の準備をしていた。
そして師匠の茶を淹れたのは誰だったのだろう。香術局の茶は当番制で淹れる決まりだが、当番表はハインツが管理している。あの日の当番は誰だったのか。
(……考えすぎだ。ハインツは味方だ。十年間、ずっと私の味方だった)
私はその疑問を、頭の隅に仕舞い込んだ。今はまだ、疑うべき相手ではない。確証のない疑いは、香術師の美徳ではない。
けれど香術師は知っている。毒も香も、同じ素材から生まれるのだと。同じ花から抽出した液が、量と方法によって人を癒しもし、害しもする。
机の上の茶を、私はそっと脇に置いた。飲まないまま。
窓の外で、香料庫のカモミールが風に揺れていた。師匠がいつも手入れしていた一角が、少しだけ荒れ始めている。雑草が伸びかけている。明日、手入れをしよう。
「師匠。私、ちゃんとやりますから」
独り言は、誰にも聞こえない。
その夜、パスカルが息を切らせて香料庫に駆け込んできた。そばかすだらけの頬が紅潮して、目が見開かれている。
「テレーゼ先輩! 大変です! ドレッサー伯爵が、香料庫の管理権をヴァーゲン家に移すって——中庭の掲示板に公示が出ました!」
パスカルの声が裏返っている。走ってきた勢いで、香料庫の扉に肩をぶつけていた。
私はカモミールの茶杯を見た。冷めきった琥珀色の液面が、かすかに揺れている。
——始まった。敵は、もう動いている。




