第3話 香料庫に眠る記録
香料庫に駆けつけたとき、オーレリア師匠は乾燥棚の下に倒れていた。
パスカルが泣きそうな顔で師匠の肩を揺すっている。見習い香術師の少年は、そばかすだらけの顔を真っ赤にして、私の姿を見た瞬間に叫んだ。
「テレーゼ先輩! オーレリア先生が——突然倒れて——さっきまで普通に香料の選別をしてたのに——」
駆け寄った。
膝をつき、師匠の手首を取る。脈は弱く、不規則。瞳孔が開き気味で、唇の端にわずかな泡がある。皮膚は冷たく、指先に血色がない。
(……これは)
香術師の目が、一瞬で状況を読む。
自然な発作ではない。この症状の組み合わせ——瞳孔散大、唾液の異常分泌、心拍の乱れ、末端の冷え。
トリカブトの中毒症状に酷似している。
トリカブトは極めて強い毒性を持つ植物で、香術の世界では厳重に管理される禁忌素材だ。微量であれば鎮痛に用いられることもあるが、致死量はごくわずか。特に心臓への作用が強い。
「パスカル、解毒の調合を。棚の三段目、青い蓋の瓶——活性炭の粉末を持ってきて。それからカモミールの抽出液、琥珀色のやつ。あと、香術局に走って医師を呼んで。急いで」
「は、はい!」
パスカルが駆け出す。ポケットの中の乾燥ラベンダーを握りしめているのが見えた。この子は緊張するとそうする癖がある。
私は師匠の上体を起こし、横向きに寝かせた。気道を確保するための基本動作だ。師匠の白髪が土の上に広がる。いつも高く結い上げている髪が、ほどけている。
四十年間、この香料庫を守り続けた人の髪が、土にまみれている。
「師匠、聞こえますか」
「……テレ、ゼ」
かすれた声。師匠の目が、私を見ている。焦点は合っている。意識はまだある。
「棚の……裏に……」
「喋らないで。今、解毒を——」
「聞きなさい」
弱々しいのに、声だけは昔と同じ師匠の声だった。叱るときの、あの毅然とした響き。
「棚の裏の、煉瓦の三つ目。……私の記録がある。香料の流通記録。十年分の——おまえに、伝えなければならないことが——」
師匠の手が、私の袖を掴んだ。力はもうほとんどない。けれど、その握り方には意志がある。
「……伯爵が、何をしてきたか。全部書いてある。おまえなら——読める」
パスカルが瓶を持って戻ってきた。私は震える手で解毒の調合を始めた。活性炭の粉末を水に溶かし、カモミールの抽出液を加える。配合比を頭の中で計算する。体重から逆算して、活性炭の量を決める。
師匠の体重はおよそ五十前後。活性炭は体重あたりの基準量がある。多すぎても少なすぎてもいけない。正確に、冷静に。これは調合だ。私の仕事だ。
師匠の唇に含ませる。少しだけ、嚥下する動きがあった。喉が動いた。まだ、意識がある。
医師が来た。香術局の同僚たちも集まってきた。ハインツもいた。
ハインツは「先生!」と叫んで駆け寄り、私の隣で師匠の手を握った。
けれど、オーレリア師匠は、その夜のうちに息を引き取った。
享年六十二歳。王宮香術局に四十年仕えた女性。私に香術のすべてを教えてくれた人。「おまえの目は、香術師の目だ」と、私の人生を変えてくれた人。
私は師匠の枕元で、声を出さずに泣いた。泣かないと決めたばかりなのに。けれど、師匠はもう「泣いてからそう言うもんだよ」と笑ってくれない。
◇
翌日、私は香料庫の乾燥棚の裏に行った。
煉瓦の壁は古く、苔が隙間に入り込んでいる。三つ目の煉瓦を探す。他の煉瓦より少しだけ新しい。師匠が入れ替えたのだろう。指をかけると、するりと抜けた。
奥に、油紙に包まれた手帖が入っていた。表紙は香料の汁で汚れているが、中のページは丁寧に保存されている。
開くと、びっしりと文字が並んでいた。
日付、香料の品名、数量、仕入先、納品先。公式の流通記録と同じ項目を、師匠が独自に追跡した個人的な記録。十年分。
手帖の後半に、赤い線で囲まれた項目がある。
『ドレッサー伯爵家経由の香料流通——帳尻が合わない。年間で約二割の香料が、記録上消えている。行先は極秘任務の補給名目。だが、任務の規模に対して香料の量が多すぎる。差分はどこへ行ったのか』
私は手帖を胸に抱えた。
師匠は、この記録を守るために命を落としたのかもしれない。
(トリカブトの毒は、意図的に調合しなければ致死量にならない。自然の状態では経口摂取しても致死量に達することは稀だ。粉末にして濃縮し、飲み物に混入する——そういう手順を踏まなければ、人は死なない)
観察。仮説。
まだ検証が足りない。けれど、師匠の死が事故ではなかった可能性が高いことは、香術師として断言できる。
私は手帖を作業着の内ポケットに入れた。
油紙の包みが胸に当たる。師匠の体温はもうないけれど、十年分の執念がこの紙の中に生きている。
法務局のサージュに見せなければならない。離縁の手続きだけではない。もっと大きなものが、この手帖の中に眠っている。師匠が命を懸けて守った真実が。
香料庫を出ようとしたとき、入口に人影があった。
「テレーゼ」
コンラートだった。金髪が逆光で暗く見える。上等な平服を着ている。英雄として迎えられた人間に相応しい、仕立ての良い服。
「少し話せるかな?」
「……何の話?」
「離縁のことだよ。きみが法務局に行ったって聞いた。——もう少し、穏便にできないかな?」
穏便に。
師匠が倒れた翌日に、その言葉を選ぶ人なのだ、この人は。
「穏便に、というのは?」
「公にしなくても、内々に処理できるだろう? きみの立場だって守れる。宮廷香術師の職はそのまま——生活に不自由はさせない」
「コンラート」
私は夫の名前を呼んだ。十年ぶりに、この名前を怒りとともに口にした。
「私の師匠が、昨夜亡くなった」
コンラートの表情が一瞬だけ揺れた。けれどすぐに、あの柔らかい笑顔に戻る。
「それは……残念だ。オーレリア先生にはお世話になった」
「あなたは世話になっていない。会ったこともほとんどないでしょう」
私の声は静かだった。調合するときと同じ、揺れない手と揺れない声。
「離縁の件は、法務局を通します。それが正規の手続きですから」
「テレーゼ——」
「それと。師匠の死因について、私は独自に調べます。香術師として」
コンラートの笑顔が、ほんの少しだけ固くなった。
頬の筋肉が一瞬引きつるのを、私は見逃さなかった。
コンラートは何も言わずに踵を返した。甲冑の飾りが光を弾いて、一瞬だけ眩しかった。
私は香料庫の入口に立ったまま、夫だった人の背中を見送った。その背中は十年前と同じ広さだったけれど、もう追いかけたいとは思わなかった。
内ポケットの手帖が、ずしりと重い。この重さが、今の私の武器だ。




