第10話 法廷に立つ香術師
聴聞会の法廷は、王宮の東棟にある。
石造りの広間に、長い机が二つ向かい合わせに置かれている。天井は高く、色硝子の窓から光が床に模様を描いている。赤と青と金。王家の紋章の色だ。
一方に私とサージュ。もう一方にコンラートとドレッサー伯爵の代理人。傍聴席には香術局の同僚たちが何人かいた。パスカルが最前列に座っている。ポケットの中のラベンダーを、きっと握りしめているだろう。
エルヴィーラ王太子妃が裁定者として上座に座っている。その表情には一切の感情がない。銀灰の髪が、色硝子の光を受けてわずかに輝いている。
「では、聴聞会を始めます」
王太子妃が紅茶を一口飲んだ。白磁のカップを受け皿に置く音。儀式が終わり、裁定が始まる。
「申立人、テレーゼ・ヴァーゲン。主張を述べなさい」
私は立ち上がった。手は震えていない。香術師の手だ。正確に、冷静に。師匠の前掛けの刺繍が、胸の前で揺れた。
「私は三つのことを申し立てます。一つ目、コンラート・ヴァーゲンとの婚姻の解消。二つ目、コンラートおよびドレッサー伯爵による香料の不正流通の告発。三つ目、元香術局長オーレリアの死に関する調査の要請」
法廷がざわめいた。三つ目の申立て——殺人の調査要請が、傍聴席に衝撃を与えたらしい。
サージュが証拠書類を順番に提出した。付箋が色分けされた書類が、裁定者の前に整然と並ぶ。黄色、青、赤。サージュの仕事は、いつも通り正確だった。
「まず、婚姻解消について。コンラート・ヴァーゲンは任務先で別の女性と婚姻を結んでいます。遠地婚の特例が適用されるには三つの条件が必要です。そのうち第三の条件——本国の配偶者への通知が一度もなされていません」
「証拠は?」
「申立人が十年間に送付した手紙四十通以上の写しが残っています。一方、コンラート側には受領記録がない。連絡便の発送を担当していたハインツ・ブルクが、ドレッサー伯爵家の家令として手紙を意図的に止めていた。隣国の香術師連絡網の記録にも裏付けがあります」
法廷が静まり返った。
コンラートが口を開いた。金髪が色硝子の光で赤く染まっている。
「テレーゼ、これは——」
「発言は裁定者の許可を得てから」
王太子妃の声が冷たく遮った。紅茶のカップには、もう手をつけていない。
「続けなさい」
サージュが二つ目の証拠に移った。
「香料の不正流通について。故オーレリア香術局長が個人的に記録していた流通の記録によれば、ドレッサー伯爵管轄の香料から年間約二割が行方不明になっています。任務部隊の補給名目で計上されていますが、隣国の記録には納品実績が存在しません。加えて、ナターシャ・ヴァーゲンの証言書により、コンラートが隣国で私的に香料を買い付けていた実態が確認されています」
私が立ち上がった。
「香術師として補足します。消えた香料の中に銀蓮花が含まれています。銀蓮花は正規の香術では扱えない規制品目です。精製方法によっては人の意識に作用する成分が濃縮され、禁制品に指定されています。正規ルートで動かせないからこそ、極秘任務という名目が必要だったのです」
「つまり?」と王太子妃。
「極秘任務の名目で銀蓮花を含む希少香料を調達し、正規ルートを通さずに闇市場に流していた疑いがあります。伯爵が正規の利権に加えて非合法の流通を必要とした理由は、規制品の取引にあったと考えます」
伯爵の代理人が立ち上がった。痩せた男で、目が鋭い。
「これらは状況証拠に過ぎない。伯爵への直接的な指示を示す証拠はあるのか。香術師の推測で宮廷の重鎮を告発できるとでも?」
サージュが最後の書類を出した。
「二つあります。まず、ナターシャ・ヴァーゲンの証言書です。隣国の自宅にドレッサー伯爵の家紋入りの封書が定期的に届いていた。封書の存在は、伯爵とコンラートの間に継続的な連絡があったことを示しています」
「それと——」
私は懐から師匠の手帖を取り出した。最後のページを開く。
「オーレリア先生の記録の最後のページに、ドレッサー伯爵の直筆署名入りの指示書の写しが挟まれていました。師匠は、万が一のために、伯爵の指示書を自分の手で書き写していたのです。指示書の内容は、『銀蓮花の調達量を来季二割増とせよ』という具体的な品目指定です」
法廷が揺れた。傍聴席からどよめきが起こる。伯爵の代理人の顔から血の気が引いた。
◇
裁定は、その日のうちに下された。
エルヴィーラ王太子妃は紅茶を飲まなかった。カップに手をつけないまま、裁定を読み上げた。つまり、判断は最初から済んでいた。証拠を見た時点で、もう結論は出ていたのだろう。
「コンラート・ヴァーゲンの遠地婚は無効。通知義務の不履行および組織的な工作が認められる。テレーゼ・ヴァーゲンとの婚姻解消を認める。コンラート・ヴァーゲンには騎士爵の剥奪と宮廷からの追放を命じる」
コンラートの顔から血の気が引いた。金髪が色硝子の光の中で、初めて色褪せて見えた。
「ドレッサー伯爵については、香料の不正流通および関連する死亡事案について、正式な調査を開始する。調査期間中の伯爵の全権限を凍結する」
これは「小勝」だ。伯爵の処分が確定するまで、完全な決着ではない。師匠の死の真相も、まだ明らかにはなっていない。
けれど、十年の嘘は、今日、この法廷で崩れた。
法廷を出るとき、サージュが私の隣を歩いた。いつもより、半歩だけ近い。
「お疲れさまでした」
「サージュさん。ありがとう」
「礼には及びません。これは法務局の職務——」
「職務じゃない部分もあったでしょう。お姉さんのこと」
サージュが足を止めた。色硝子の光が、彼の横顔に色を落としている。青と金が混ざった光。
「……ええ。姉の件も、調査対象に含まれました。五年間、待っていた答えに、ようやく手が届くかもしれない」
「よかった」
「……よかった、ですね」
サージュが小さく頷いた。眼鏡の奥の目が、穏やかだった。
法廷からの帰り道、コンラートが私を呼び止めた。
回廊の柱の影に立っている。甲冑は脱いでいた。英雄の紋章はもうない。ただの男がそこにいた。
「テレーゼ。最後に一つだけ言わせてくれ」
「何?」
「……きみのためを思って——」
「その言葉は、もう聞き飽きたわ」
私は振り返らなかった。コンラートの足音が遠ざかる。止まって、また歩いて、やがて聞こえなくなった。
回廊の窓から、香料庫が見えた。夕日に染まったカモミールの花が風に揺れている。あの場所に帰ろう。私の居場所はあそこだ。師匠が守り、私が引き継いだ場所。
懐の手帖が、かすかにカモミールの匂いを放っていた。師匠の指の脂と、香料庫の空気が染みついた匂い。
聴聞会は終わった。だが、これは始まりに過ぎない。伯爵の全容解明はこれからだ。師匠の死の真相、サージュの姉の死の真相、そして十年間の不正の全貌。
そして——凍結された伯爵の執務室から、予想もしなかった名前が記された書類が見つかることを、この時の私はまだ知らなかった。
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