第11話 凍りついた執務室
伯爵の執務室の扉を開けたとき、最初に鼻を突いたのは埃の匂いだった。
生きた空気のない部屋特有の、乾いた、停滞した匂い。香術師にとって匂いは言語だ。この部屋は、しばらく主人を失っている。
聴聞会から三日。ドレッサー伯爵の全権凍結が決まり、執務室には王宮の封印が施されていた。蝋で封じられた扉を開く権限を持つのは、調査を担当する法務局——つまりサージュだけだ。
「ヴァーゲンさん。香料に関する資料の鑑定をお願いします。法務局だけでは品目の判別ができません」
サージュが封印の蝋を丁寧に剥がしながら言った。手袋をしている。証拠保全のために、素手では何も触らない決まりだ。白い手袋がサージュの長い指を覆い、動きが普段より慎重に見える。
私も同じように手袋をはめた。香術師が調合時に使う、薄い革の手袋。指先の感覚を残しつつ、素材を汚さないためのもの。師匠に「手袋を忘れる香術師は三流だ」と叱られたのを思い出す。
扉が開いた。
執務室は広い。壁一面の書棚、重厚な樫の机、暖炉の上に飾られた家紋の盾。権力者の部屋だ。机の上には高価な文具が並び、インク壺は銀製、万年筆の軸には宝石が嵌められている。香料利権で得た富が、この部屋の隅々にまで行き渡っている。
しかし埃が薄く積もっている。伯爵が逮捕される前に、ここを使う時間はなかったのだろう。
いや——違う。
埃の積もり方が均一ではない。机の上は厚く積もっているのに、書棚の一画だけが薄い。最近まで誰かが出入りしていた形跡だ。封印される前に、誰かがここから書類を持ち出そうとした——あるいは、持ち出した。
「サージュさん。書棚の左から三番目、下から二段目。埃の付き方が違います」
サージュが目を細めた。懐から小さな灯りの魔道具を取り出し、棚を照らす。魔石の淡い光が書棚を浮かび上がらせる。確かに、その一画だけ埃が薄い。指で触れた跡が残っている。
棚から書類の束を引き出した。革の紐で束ねられた厚い封筒が五つ。封蝋はすでに割られている。
一つ目を開けた。中身は取引の記録だった。銀蓮花の精製品の売却先、購入者の名前、金額。闇市場の取引明細そのものだ。購入者の中には、宮廷の貴族と思しき家名がいくつも並んでいる。
「これは……決定的な証拠ですね」
サージュの声が、わずかに上ずっていた。この人がそうなるのは珍しい。普段は氷の底のように静かな声が、今はかすかに水面を揺らしている。
二つ目、三つ目と開けていく。どれも同じ種類の記録だ。年度ごとに分けられている。伯爵は律儀な人間だった。不正の記録すら整然と管理している。そこに、ある種の狂気を感じた。
四つ目の封筒を開けたとき、私の手が止まった。
中に入っていたのは取引記録ではなかった。一通の書簡。上質な紙に、流れるような筆跡で書かれている。宛名はドレッサー伯爵。差出人の欄に書かれた名前を見て、私の指から力が抜けた。
封筒が床に落ちた。乾いた音が、静まり返った執務室に響いた。
サージュが拾い上げ、差出人の名前を読んだ。その顔から表情が消えた。仮面のように動かない顔。この人はこういう反応をする。衝撃が大きいほど、感情を消す。
「……これは」
書簡の差出人は——王宮侍従長、グスタフ・エッケルト。
王太子妃エルヴィーラの側近であり、宮廷の人事と財務を一手に握る実力者。聴聞会の裁定者である王太子妃の、最も信頼する部下だ。宮廷の誰もが、侍従長の名前を聞けば一目置く。私も師匠から「あの男の前では余計なことを言うな」と忠告されたことがある。
書簡の内容は短かった。
『銀蓮花の精製品について、今季の分を侍従長室宛に納品されたし。代金は例年通り処理する。なお、香術局の老女の動きについては、こちらでも把握している。対処は任せる』
香術局の老女。
師匠のことだ。間違いない。当時、香術局で「老女」と呼ばれる存在は師匠だけだった。
「サージュさん。侍従長が——伯爵の取引に関わっていた」
「はい。しかも、オーレリア先生の動きを把握し、『対処を任せる』と書いている。これは——」
サージュが書簡を証拠袋に入れた。手が震えている。この人の手が震えるのを見たのは、初めてだった。法務官の訓練で鍛え抜かれた手が、姉の死の真相に触れて揺れている。
「——師匠の死に、侍従長も関与していた可能性がある」
私は壁にもたれた。石の冷たさが背中に沁みる。伯爵だけが敵だと思っていた。その上に、もう一枚の幕が張られていた。
◇
法務局に戻り、サージュと向かい合って座った。
机の上に、侍従長の書簡の写しが置かれている。サージュが筆写したものだ。原本は証拠保管庫に封印されている。一字一句、正確に写されている。この人の丁寧さが、今は頼もしい。
「グスタフ・エッケルト侍従長。宮廷での在任は二十年以上。王太子妃殿下の就任前から侍従長を務めています。宮廷の人事権、財務の決裁権、儀典の管理——全てを掌握しています」
「つまり、王太子妃よりも古い宮廷の人間。宮廷の構造そのものを知り尽くしている」
「ええ。王太子妃殿下が聴聞会で中立を保てたのは、宮廷の細部を侍従長に任せているからです。殿下自身が直接管理していない領域が多い。侍従長は、その隙間を利用していた可能性があります」
「侍従長が銀蓮花の取引に関わっているとして——王太子妃殿下はそれを知っているの?」
「わかりません。知っていて黙認しているのか、知らされていないのか。どちらの可能性もあります。ただ、聴聞会での殿下の態度を思い出してください。あの方は証拠に基づいて裁定を下した。感情ではなく、事実で動く人です。もし知らなかったのだとすれば——知った時点で、殿下は動く」
サージュが眼鏡を外し、指で目頭を押さえた。疲労の色がある。聴聞会の前後、ほとんど眠っていないのだろう。目の下の隈が、この人らしくない。
「ヴァーゲンさん。この件は、聴聞会で伯爵を追い詰めたときとは比較にならないほど危険です。侍従長は宮廷の人事権を握っている。法務局の人間も、香術局の人間も、侍従長の判断一つで異動させられる。最悪の場合、この調査そのものが潰される可能性がある」
「でも、引くわけにはいかない。師匠の死に侍従長が関わっているなら、伯爵だけを裁いても真実は半分しか見えない」
サージュが眼鏡をかけ直した。レンズが灯りを反射して、一瞬だけ目が隠れた。
「……同感です」
サージュが五つ目の封筒を開けた。中から、もう一通の書簡が出てきた。紙の質は先ほどの侍従長のものとは違う。もっと簡素で、けれど文字には力がある。
「ヴァーゲンさん。これを見てください」
差し出された書簡に目を通して、私は息が止まった。
宛名はドレッサー伯爵。差出人は——サージュの姉、ダフネ・アンデール。日付は五年前。姉が亡くなる二週間前のものだった。




