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極秘任務と称して十年間帰らなかった夫が 隣国で別の家庭を築いていました  作者: 渚月(なづき)
第2章

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第12話 五年前の影

サージュの手が、書簡に触れたまま動かなかった。


ダフネ・アンデール。サージュの姉。五年前に「原因不明の急病」で亡くなった、元香術局員。サージュが法務局に入った理由。この人の全ての始まり。


書簡の内容は告発文だった。


『ドレッサー伯爵閣下。香術局に所属する者として、看過できない事実を確認いたしました。閣下の管轄下にある香料流通経路において、規制品目を含む不正な取引が行われていることを把握しております。つきましては、正式な調査と速やかな是正を求めます。なお、本書簡の写しは別途保管しております。——ダフネ・アンデール』


丁寧だが毅然とした文面。最後の一文——「写しは別途保管」——は、相手に対する牽制だ。告発者が消されても証拠は残ると示している。この筆跡の持ち主は、危険を承知で行動した人間だった。


「お姉さんは、伯爵に直接告発していた」


「……はい。姉はそういう人でした。不正を見つけたら、まず当事者に是正を求める。手順を踏む人だった。法を信じていた。正しい手続きを踏めば、正しい結果が得られると」


サージュの声は平坦だったが、書簡を持つ指の関節が白くなっていた。紙を破りそうなほどの力が、そこにかかっている。


「そして、この告発の二週間後に亡くなった」


「はい」


「師匠と同じ構図です。不正を知り、行動を起こし——消された。告発の手紙を受け取った伯爵は、ダフネさんを脅威と判断した。侍従長の書簡にあった『対処は任せる』——同じ言葉が、五年前にも使われていたのかもしれない」


沈黙が落ちた。法務局の面会室に差し込む光が、窓枠の影を机の上に落としている。影の中に、二通の書簡が並んでいる。


サージュが書簡を証拠袋に入れた。動作はいつも通り正確だが、袋を閉じるとき一度だけ目を閉じた。この人が仕事中に目を閉じるのを見たのは初めてだった。法務官としての鎧の下に、弟としての悲しみがある。


「ヴァーゲンさん。この書簡が見つかったことで、状況が変わりました」


「どう変わったの」


「ダフネの告発文が伯爵の手元に残っていた。伯爵はこの告発を受けて、ダフネを排除した。そして侍従長の書簡には『香術局の老女の対処を任せる』とある。つまり——」


「告発者を消す仕組みが、すでに出来上がっていた。五年前に一度成功した手口を、同じように繰り返した」


「ええ。ダフネが最初で、オーレリア先生が二人目。この仕組みを動かしているのは伯爵だけではない。侍従長も共犯者です。指示する側と実行する側が分かれている。だから十年間、表に出なかった」


私は椅子の背にもたれた。天井の染みを見つめる。師匠もかつて、この天井を見ていたのだろうか。


「サージュさん。お姉さんが亡くなったとき、師匠は何か言っていましたか」


「直接は知りません。当時の私は法務局に入る前で、宮廷の内部事情には疎かった。ただ——法務局に入ってから調べたことがあります。ダフネが亡くなった直後、オーレリア先生が香術局の全職員に対して『単独での外部告発を禁じる』という内規を出しています。香術局の記録に残っていました」


「……師匠は、お姉さんが何をして殺されたか、わかっていた」


「おそらく。だからこそ、記録は残しながらも、十年間表に出さなかった。告発すれば同じ目に遭うとわかっていたから。師匠は戦い方を変えたのです。声を上げる代わりに、記録を積み上げた」


師匠の慎重さが、今になって理解できる。煉瓦の裏に手帖を隠し、公式記録との差異を個人的に追跡し続けた十年。それは臆病ではなく、生き延びるための戦略だった。声を上げた人間が消される世界で、沈黙しながら証拠を集め続けた。


そして最後に、私にその手帖を託した。



翌日、私は香術局の書庫で、五年前の人事記録を調べた。


パスカルが手伝ってくれた。書庫の棚は天井まで積み上がっていて、脚立が必要な高さだ。パスカルが脚立に登り、私が下から支える。この子の体重は軽いが、脚立の揺れが気になる。


「テレーゼ先輩、五年前の異動記録ってどこですか」


「棚の最上段。年度別に革表紙で綴じてあるはず。『人事』と背表紙に書いてあるのを探して」


パスカルが手を伸ばし、埃だらけの革表紙を引き抜いた。くしゃみを三回して、私に渡す。そばかすの顔が埃まみれになっている。


異動記録を開いた。五年前の春。紙が黄ばんでいる。


ダフネ・アンデールの名前があった。「退職(病気理由)」と記されている。退職日は、死亡の一週間前。つまり、亡くなる前に退職扱いにされていた。在職中の死亡ではなく、退職後の死亡として処理されている。そうすれば、宮廷の正式な調査対象から外れる。


退職の承認印を見て、背筋が凍った。


承認者の欄に、二つの印がある。一つは当時の香術局長——オーレリア師匠。もう一つは——侍従長、グスタフ・エッケルト。


師匠の承認印は筆跡が乱れている。通常の師匠の筆跡とは違う。私は十年間、師匠の字を見てきた。


調合記録の端正な筆跡、手帖の正確な記載。それと比べると、この承認の字は線が震え、筆圧が弱い。圧力をかけられて署名したのではないか。あるいは——泣きながら書いたのか。


侍従長の印は明瞭だ。迷いのない押し方。蝋の上に正確に押された印影には、一切の躊躇がない。この退職処理に、侍従長が直接関与していた証拠だ。退職を認めた上で、直後に消した。手順を踏んだ殺人の準備工作だ。


「テレーゼ先輩? 顔色が悪いですよ」


「大丈夫。パスカル、この記録を写してくれる? 日付と承認者の名前、退職理由。正確にお願い」


「はい!」


パスカルが記録を書き写している間、私は書庫の窓から中庭を見下ろした。


中庭を、一人の男が横切っていく。恰幅がよく、きちんと仕立てられた服を着ている。侍従長のグスタフだ。歩き方に余裕がある。伯爵の全権凍結も、自分には影響しないと確信している歩き方だ。ゆったりとした歩幅。周囲に挨拶をしながら、悠然と。


あの男が、師匠の死に関わっている。そしてサージュの姉の死にも。


書庫を出て法務局へ向かう回廊で、前方から人影が近づいてきた。恰幅のいい体格。侍従長その人だった。


「おや、テレーゼ嬢。聴聞会では見事だったね。若い香術師が宮廷の問題に切り込むとは、勇気があることだ」


穏やかな笑顔。けれど目は笑っていない。伯爵と同じ種類の目だ。値踏みする目。相手がどこまで知っているか、測ろうとする目。


「ありがとうございます、侍従長閣下」


「ただ、一つだけ忠告をしておこう。宮廷というのは複雑な仕組みでね。一つの糸を引っ張ると、思わぬところが崩れることがある。——自分の足元が崩れないよう、気をつけることだね」


侍従長が去っていく。その背中を見送りながら、私の手は無意識に懐の手帖を押さえていた。


警告だ。あの男は、私たちの調査が自分に近づいていることを察知している。


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